京都の大原にある寂光院。
聖徳太子が、父である用明天皇の菩提を弔うために創建した天台宗のお寺です。
平安後期には、平清盛の娘であり高倉天皇の皇后(中宮)、安徳天皇の母でもあった、建礼門院・徳子が晩年隠棲していたという尼寺でもあります。
その時の話は『平家物語』灌頂巻で「大原御幸」として書かれています。
それだけ歴史のある寂光院ですが、2000年5月に放火による火災で本堂が焼けてしまい、本尊の六万体地蔵菩薩も焼損してしまったんですね><
(現在は復興しています。)
そんな寂光院に紅葉狩りに行きました。
残念ながら今年は色付きが悪かったそうで、しかも終わりかけだったのですが、訪れる方でいっぱいでした♪
鎌倉時代当時の彩色が見れる六万体地蔵菩薩
寂光院の境内はそんなに広くなく、拝観受付から階段を登ったらすぐ本堂があります。
こちらが本堂です。
本堂の真ん中には御本尊、六万体地蔵尊が安置されています。
下の写真はパンフレットから拝借させていただきました^^
(パンフレットより)
慈悲の心を表わし、人間の苦しみや辛さ、思い通りにならない現実を救い抜け出させて頂き、願いを叶えて頂ける諸願成就のご利益があるそうです。
色鮮やかですが、これは鎌倉時代制作当時の彩色なんだそうです。
御本尊は創建当初、聖徳太子作の地蔵尊を安置していたとあるのですが、2000年5月に焼けてしまった旧本尊は鎌倉時代の寛喜元年(1229年)作のもののようです。
なぜ鎌倉時代に本尊が変わったのかはわかりませんが、焼損してしまったのは鎌倉時代作のものであることは間違いないようです。
像内に納入されていた3,000体以上の地蔵菩薩の小像などは無事だったので、収蔵庫に安置されています。
特定日のみ一般公開されるそうです。
女院の閑居御所としてのお寺
寂光院の初代住持は聖徳太子の御乳人であった
その後、代々高貴な家門の姫君らが住持を務めているそうです。
そのようなことから創建当初から尼寺だったのでは?と思うのですが、そのあたりの資料がないので、どのような方が住持を務めたのか、名前すら伝わっていないようです。
本堂の真ん中には大きな六万体地蔵尊が安置されていますが、本堂奥には
(パンフレットより)
こちらも2000年5月の火災で焼失したのですが、現在は復興しています。
寂光院ではこの二人を2代目、3代目と位置づけています。
どちらも平安末期の人物で、2代目の阿波内侍は、大河ドラマ『平清盛』で、阿部サダヲさん演じる「信西」の娘です。
元々、崇徳天皇のお気に入りの女官だったのですが、出家して尼となります。
宮中では建礼門院に仕えたこともあります。
阿波内侍は、大原地方で柴漬け売りをしている
建礼門院・徳子は平清盛の娘、平徳子です。
清盛の勧めで高倉天皇の皇后となり、その間に息子の安徳天皇をもうけました。
しかしその後、壇ノ浦の源平合戦で一門の滅亡。
入水自殺しようとしたのですが、それを許されずに一人助けられ、京へ送還されました。
その後出家してこの地に隠棲し、安徳天皇と平家一門の菩提を弔う役割を果たしています。
平家物語にも描かれる庭園
本堂前西側には、平家物語「大原御幸」の舞台となる庭園があります。
「大原御幸」は、平家滅亡後にこの地で隠棲している建礼門院を、後白河法皇がお忍びで訪問した時の話です。
建礼門院は質素な草庵に住みながら菩提を弔う日々を送っていたのですが、そこに後白河法皇が突然訪問します。
後白河法皇は「その暮らしぶりには目もあてられない」と憐れみを感じながらも建礼門院に対面を求めます。
建礼門院は戸惑って会うのを拒もうとしますが、阿波内侍に説得されて涙を流しながら対面、六道になぞらえて過去の栄華・衰退の半生を語り、法皇や供者も涙しながら語り合ったそうです。
そのような話が大原御幸の内容ですが、語り合った場所が寂光院前の庭園なんですね。
庭園の池には、"千年姫小松" という御神木があります。
この松は大原御幸の、
「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」
の松です。
この松も火災で被災し、倒木の危険からやむなく伐採、現在のような形で御神木として残っています。
寂光院の御朱印
寂光院の御朱印です。
寂光院は、2000年5月の火災で失ったものが大きいですね><
犯人も捕まらないまま時効になってしまったそうで、とても残念です。
でも、鳳智松殿(宝物殿)には無事焼け残った像なども見れますし、大原御幸についても知ることができました。
今、大河ドラマで『平清盛』を見ているだけに、感慨深くて寂しいものを感じますね^^