六波羅蜜寺

清水寺より西側、北は建仁寺近くから五条通に至る地域はかつて、六波羅と呼ばれていました。

六波羅といえば、かつて平家一門の邸宅が立ち並んだ地。
まさに平安時代後期の権力の中心地だったのですが、今となっては平家が住んでいた面影は全然ありません。

そんな場所に、平家が邸宅を築く200年以上も前からあるお寺が、西国三十三所観音霊場の一つ、六波羅蜜寺です。

天歴五年(951年)、醍醐天皇第二皇子 空也上人によって開創されました。
地名の「六波羅」も、このお寺にちなんでつけられたといわれています。

六波羅蜜とは?

お寺の名前「六波羅蜜」の言葉の響き、非常にインパクトがありますよね。

「六波羅蜜」は、この世にいながらにして仏の境地に至るための6つの修行のことです。
「波羅蜜」はサンスクリット語の「パーラミター」からきていて、「涅槃の地に行く」の意味です。

人間は、人として生まれてきて、修行を積めばみんなが仏になる可能性を持っています。
そのためには、修行をしないといけません。
その中で、一番身近なところでできるもの、これが6つの波羅蜜なんです。

布施(ふせ)

見返りを求めない応分の施し。
貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことです。物質的な施しだけではなく、精神的な支えになることも布施になります。

持戒(じかい)

戒めを持つこと。
道徳・法律等は人が作り、現在はますます複雑になっていますが、そもそも私たちが高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が大事です。

忍辱(にんにく)

耐え忍ぶこと。
どんなに苦痛を受けても、怒りで対処しようとすれば、それは良い結果を生みません。怒りをぐっとこらえれば、物事の本質に近づきます。そして、自分は他の存在に生かされていると気づきます。それは、全ての人の心を自分の心とする仏様の慈悲に通じます。

精進(しょうじん)

日々、不断の努力をすること。
人の生命には限りがあります。ひとときも無駄にせず、時間を大切にして努力することです。

禅定(ぜんじょう)

第三者の立場に立って、自分自身を冷静に見つめること。
自分が見えているかどうか?簡単に言えば「反省」ができるか?です。

智慧(ちえ)

仏様に頂いた智慧を生かして世のため人のためになる行動をすること。
我々は本来、仏様の智慧を頂いてこの世に生をうけています。しかし、貪りや怒り、愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちなのです。なので、きちんと智慧を生かしましょうということです。

「修行」というと、自己浄化するための厳しい行を想像しますが、この六波羅蜜はむしろ、普段の生活の中で、他人との関わり方で心がけておくもののような感じですね^^

六波羅蜜寺の見どころ、空也上人像

六波羅蜜寺と言えば、やはり六波羅蜜寺の開祖、空也上人の像が有名です。
空也上人 フィギュア

(画像:仏像フィギュアの【イSム】より)

上の写真は通販で販売されているフィギュアですが、六波羅蜜寺にある本物は、鎌倉時代を代表する仏師 運慶の4男、康勝の作の空也上人立像です。
宝物館に安置されています。

空也上人は、平安時代中期の僧で、日本で初めて念仏の意味を説いてまわったので「念仏の祖」と言われています。

当時の高僧といえば、貴族や出家してきた僧侶にむけて指導するようなイメージがあると思いますが、空也上人は市中に住んで、得たお布施を貧しい人や病人に惜しまず与えたりする、民衆に近い存在でした。

そして、「南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・」と、念仏を唱えながら説法して歩き、社会事業も行っていたので、市聖いちのひじり、または阿弥陀聖(あみだひじり)と呼ばれていました。

当時の念仏は、怨霊を鎮め、供養するために使っていたもので、一般にはなじみがなかったのですが、空也上人は、念仏は死者の供養のためだけでなく、極楽往生したい人を阿弥陀仏が極楽に導くためにするものだ、と説いて回っていたんです。

空也上人がいた当時は、末法の世がもうすぐそこに迫っている時代。
念仏で救われるのなら、あやかりたかった人も多かったでしょうね^^

空也上人の像は口から何かを出していますが、これは6体の阿弥陀仏。
「南無阿弥陀仏」の6文字を、6体の阿弥陀仏で表現しています。

マンガの吹き出しみたいで面白いですが、実は、空也上人が念仏を唱えると六体の阿弥陀仏が現れたという口承があるんです。
そのように見えるほど、空也上人は聖人として扱われていたわけです。

念仏を唱えながら市中を歩きまわっていて、人々を救済していた様子がよくわかる像ですね。
間近で見ると、手には血管が浮き出ていたり、結構リアル感があります。

顔の表情は、見る人によっては「法悦(ほうえつ)」といって、仏教の教えが有難い気持ちになるような見え方をする場合もあれば、苦しんでいるように見える場合もあると思います。
他に類を見ない不思議な像です^^

踊りながら念仏を唱える、空也踊躍念仏

空也上人がいた時代、京都では天災や疫病が相次ぎました。

天暦5年(951年)に疫病が流行った時には、時の帝であった村上天皇の勅命で、悪疫の退散を行うために街に出ました。
その時もこの像のように、たいして立派ではない衣で街に出て歩き回り、梅干しと結昆布を入れた「皇服茶」を病人に与え、念仏を唱えて街の人々を教化して回ったのだそうです。

そのような時も空也上人が人々の救済を願って始めたものがあります。
それが、空也踊躍念仏くうやゆやくねんぶつです。

普通に念仏を唱えるのではなく、踊り歩きながら鐘を叩いて唱えていたのです。

ただ、「踊る」と言っても、私達が想像する踊りらしい踊りではなく足場を踏み固めるように、ズシズシと力強く地面を踏み歩きます。

なぜ普通に唱えずこんなやり方をしたのか?
それは当時、念仏があまりにも一般に広がったので、それに対して危機感を持った為政者から弾圧を受けていたからです。

なので、念仏を唱えていると捕まえられてしまいますので、唱えているとわからないようにする必要があったんですね。

お寺でも「南無阿弥陀仏」とも普通に唱えられないほどだったので、言葉が外部に聞かれても解らないように

「モーダナンマイトー」
「ノーボーオミトー」

と解りにくく唱えます。

そしていつでも止められるようにしていました。

このようなことから六波羅蜜寺に伝わる念仏は「隠れ念仏」とも言いますが、六波羅蜜寺では空也上人がやっていた当時のままの踊念仏を、年末の12月13日~30日に行っています。

撮影は禁止なので写真はありませんが、福島県会津若松市の八葉寺でも毎年8月5日に、原形を残した踊念仏が行われます。
その動画を見つけたので載せておきます^^

六波羅蜜寺は怖い場所にあった?

現在の六波羅蜜寺のある場所は、轆轤(どくろ)町といいます。
何とも怖い響きですよね^^;

実はこの場所、平安京の三大葬送地の一つ「鳥辺野」の入口にあたる場所なんです。

すぐ近くにある六道珍皇寺には、「六道の辻」とかかれた石碑が立っていて、ここが鳥辺野の入り口を意味します。

六道の辻

現在は火葬が一般的ですが、かつては風葬、つまり遺体を野ざらしにするのが一般的でした。
火葬するのは、一部の高貴なお方たちだけだったんですね。

庶民は埋葬されることもなく、野ざらしにされるのがならわしでした。
そのまま風化して、時には鳥につつかれたり、自然のままに朽ちていくのを待つのです。

風葬する時は、平安京の外に遺体を持っていくのですが、それが三大葬送地と呼ばれる場所。
北の蓮台野、西の化野、そして東の鳥辺野です。
大きな葬送地はこの3か所ですが、他にも「〇〇野」という地名の場所は、そういう場所です。

現在は京都一の観光スポットになっている清水寺近辺も、遺体の集積所のようなものだったんですよ。

源為憲が空也上人の生涯を記した、「空也誄(くうやるい)」によると、空也の活動は、死霊鎮送の要素が含まれていたことが書かれています。

それによると、見つけた遺体を1か所に集めて焼却し、そのむくろの額に「阿弥陀仏」と書くわけです。
そうすることで死者を救済したかったのでしょうね。

なので六波羅蜜寺は、鳥辺野の入り口に建てられたのかもしれません。

六波羅蜜寺の本尊は、空也上人作の十一面観音

六波羅蜜寺の本堂に祀られているご本尊は、十一面観音菩薩。
しかもそれは、空也上人が自ら彫ったと伝わる像で、国宝に指定されています。

しかし残念ながら、普段から本堂でお目にかかれる十一面観音は「御前立(おまえだち)」といって、ご本尊の前に立つ、言わば代理の仏様です。
本物は秘仏で、中央の厨子に安置されていて、固く閉じられているんです。

しかし、御開帳されることもあって、12年に1度、辰年の33日間だけ拝観できます。
今までだと、11月に御開帳される傾向があります。

その他、御開帳年ではない時でも、特別な時に御開帳される場合もあります。

例えば、西国三十三所の中興の祖である花山法皇の1000年御遠忌は、2008年~2010年にわたって西国三十三所のお寺でイベントが行われましたが、17番札所である六波羅蜜寺は3回にわたってご本尊が御開帳されました。
2013年は、六波羅蜜寺の開創1050周年で御開帳されました。
ただし、この時は33日間ではなく、9日間と短かったです。

ご本尊を拝みたい方は、このように何かの記念イベントで御開帳されるかもしれませんので、六波羅蜜寺の公式サイトをチェックしておきましょう^^

六波羅蜜寺は、時の権力者とも密接な関係があった

六波羅蜜寺 伝・平清盛坐像

時代が下って平安後期になると、六波羅蜜寺は、時の権力者ともつながるほど大きなお寺になってきます。
それがわかるのが、宝物館に安置されている「伝・平清盛像」や、境内にある平清盛を祀った塚「清盛塚」です。

平家は六波羅蜜寺にゆかりがあったとわかりますね。
平安後期に、平清盛の祖父にあたる平正盛が、付近に阿弥陀堂を建てたのが六波羅蜜寺と平家とのつながりの始まりと言われています。

その頃の六波羅蜜寺は広大な敷地を持っていて、平家が軍勢を駐屯させるようになり、そのうち境内の中にも平家一門の館を構えるようになって、拠点化したんですね。

その後、鎌倉時代になってからは、鎌倉幕府の出先機関「六波羅探題」も置かれていました。

そのため、平家落ちの際には境内にある諸堂は類焼していますし、承久の乱、元寇の変で度重なる兵火にもあっています。
でも、本堂だけはその都度、難を逃れたといいます。

まさに奇跡のお堂です。
ご本尊のパワーがすごいのかもしれませんね^^

現在の本堂は、室町時代(1363年)の再建による建築で、明治以降は荒廃していましたが、昭和44年に開創1000年を記念して解体修理が行われました。
その時に、創建当時の極彩色の色合いが復元されました。

というわけで、六波羅蜜寺の本堂は、平安・鎌倉時代の寺院建築が見られる京都のお寺の一つなのです。

六波羅蜜寺のお守り・おみくじ

金運のご利益♪二体の弁財天

弁天堂

六波羅蜜寺には二体の弁天さんがいらっしゃいます♪

一人は、入口入ってすぐの弁天堂。
都七福神のひとつ、六波羅弁財天が祀られています。

金色に輝いていて、どこか御顔立ちがペルシャっぽい?(勝手なイメージですが^^;)ゴージャス感があります。
そして本堂前を通り過ぎて、奥にある地蔵堂。

ここにもお地蔵さん、水かけ不動さんと一緒に、弁天さんがいらっしゃいます。
撮影禁止なので写真はありませんが、ここの弁天様は銭洗い弁天

弁天様の前に小さなざるがあって、ここにお金を入れてジャブジャブ洗います。
そして、金運お守りを購入して、洗ったお金をお守りの包み紙で包み、通帳などを入れている袋に一緒に入れておきます。

お守りは肌に近い所で持ち歩くようにします。
下の黄色い紙が、洗ったお金を包んだ紙です。

六波羅蜜寺 金運お守り

もしお守りが無くなったら、それはお守りが災いから守ってくれたということ。
なので感謝をすれば良いそうです^^

六波羅蜜寺を訪れたらやっておきたい「開運推命おみくじ」

六波羅蜜寺には、他とは違うおみくじがあります。
自分の生年月日と性別から1年の運勢を占う「開運推命おみくじ」(400円)です。

怖いくらいよく当たると有名なおみくじなんですよ^^

中国が起源とされている方法で行う本格的なおみくじで、内容も、通常のおみくじとは全く違い、その数はおよそ52万通りもあると言います。

なんと全てが手書きなのですが、それが読みづらい方も解説書つきなので安心です。

毎年、節分に新しいくじに変わるので、節分になると行列ができるほど人気になるおみくじです。

六波羅蜜寺を訪れる際は、ぜひ試してみてください^^

六波羅蜜寺の御朱印

六波羅蜜寺は、

  • 西国三十三ヶ所 第十七番札所
  • 洛陽三十三ヶ所 第十五番札所

になっています。
まずは、西国三十三ヵ所の御朱印です。

六波羅蜜寺 西国三十三所 御朱印
六波羅蜜寺 御詠歌

そしてこちらは御詠歌です。

「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」

と書かれています。

この意味は、宝物館の入館チケットに書かれていました。

例え五つの大罪(一つには父を殺し、二つには母を殺し、三つには聖を殺し、四つには平和をみだす、五つには仏の身より血を流す)を犯した者でも、御観音様とご縁を結び、今度は六つの六波羅蜜を日々実践すれば罪は消えていくだろう

お次は、洛陽三十三所 の御朱印です。

洛陽三十三所 六波羅蜜寺 御朱印


六波羅蜜寺関連の本も出版されています^^

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南無阿弥陀仏と称えて極楽の蓮の上へ。一度でも、念仏を称えれば極楽に行けると説いた、市聖・空也の寺。
六波羅蜜寺 空也上人像と東山
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