創建は最澄のようですが、縁起によると、平安時代中期の天台宗の僧、
どういうことか?というと、人が臨終する時に一心に念仏を唱えると、阿弥陀如来とそのお供の者たち(聖衆)が迎えに(来迎)きて、極楽浄土に連れて行ってくれるというものが浄土教の教えにあるのですが、源信がそれを感じとったということですね^^
このお寺は、「近江の正倉院」と呼ばれるほど文化財を所有しているお寺。
その中でも特に、地獄の世界などを描いた、国宝の「六道絵」が有名です。
六道絵は、衆生が極楽往生できるようにその方法について著した「往生要集」に基づいて作られた絵です。
正式名称は、絹本著色六道絵。
この絵が、毎年8月16日の虫干し会の時だけ公開されます!
普段しまっている衣類や書籍、絵画などを、虫の害から防ぐために箱から出し、日光に当てたり風を通したりすることで湿気やカビから防ぐこと。
というわけで、見に行きました^^
聖衆来迎寺が「近江の正倉院」といわれる理由
聖衆来迎寺のある琵琶湖の西岸には、比叡山延暦寺や、延暦寺の僧侶の隠居坊が立ち並ぶ坂本など、重要なお寺や文化財がたくさんあります。
しかし、織田信長の比叡山焼き討ちの際に、その多くが焼失してしまったんですね。
そんな中、聖衆来迎寺だけが焼き打ちの対象から外されたこともあって、無事だったのです。
他の寺から預かった寺宝も多数あって、焼き打ちで多くを失った今となっては、それらは貴重な文化財になっているんですね。
聖衆来迎寺は天台宗の寺院なので、天台宗の総本山である比叡山焼き討ちを行うなら、一緒に焼かれてもおかしくないはず。
なのになぜ焼き打ちを免れたのでしょうか?
それには戦国時代、織田軍と朝倉・浅井軍との間で行われた「坂本合戦」と呼ばれている戦いが関係しています。
この戦いは、「志賀の陣」とも呼ばれています。
織田信長が摂津の国で三好衆や石山本願寺との戦いで足止めされている時、朝倉・浅井軍が京都を目指して、手薄になっていた琵琶湖西岸を南下してきたことから始まった戦いです。
朝倉・浅井軍が京の都に入ると、戦いが厄介になりますので、ここで進撃を止めることは極めて重要になります。
その時の織田方の大将だったのが、森可成。
織田信長の小姓として活躍した森蘭丸の父です。
森可成は、坂本のやや南にあった宇佐山城を2、3千ほどの手勢で守っていました。
しかし、朝倉・浅井軍は3万の大軍だったので明らかに勝ち目はありません。
そんな中、500の兵を率いて玉砕の覚悟で出陣します。
この時、織田家と敵対関係のなかった比叡山延暦寺が敵方に加わり、挟みうちにあって森可成らは討ち死にしてしまいます。
しかし、そのおかげもあってか、織田軍の主力部隊が来るまでなんとか持ちこたえ、宇佐山城は落城を免れました。
そして、この時の延暦寺の動きが、信長の比叡山焼き討ちを決意させてしまいます。
その時、聖衆来迎寺は天台寺院として浅井・朝倉方となる立場にはありましたが、その時の住職が森可成の死をいたみ、同寺に運んで葬りました。
そのお墓が現在も残っています。
信長は、比叡山だけでなく、坂本の町家も焼き払いましたが、聖衆来迎寺だけはその恩義を感じて焼き打ちしなかったと伝わっています。
往生要集を元にその内容を視覚化された六道絵とは?
源信が著した「往生要集」は、日本の地獄の概念を決定づけた書物です。
源信が生きた平安時代中期の仏教は、これまでの国家安泰を祈願するものから、個人の救済が求められるように変化していきます。
そういう中で源信は、色々な経典から六道輪廻の法や、極楽浄土に至る道をピックアップ、わかりやすいように編集したのが「往生要集」です。
仏教では「六道輪廻」という考え方がありますが、これは、生きとし生けるものは、
- 天上界
- 人間界
- 修羅界
- 畜生界
- 餓鬼界
- 地獄界
の6つの世界(6道)で、生き死にを繰り返すものだ、という考え方です。
生前の罪の重さに応じて、次はどの世界に産まれるのかが決まりますが、最も罪が重いものは地獄に落ちます。
六道の一番上にあるのは「天上界」。
ここは人間よりも寿命が長く、空を飛ぶこともできたり、快楽に満ちた世界です。
なんともうらやましい世界ですが、天上界といえど、いずれ衰えて死が来るのは免れないので、煩悩からは脱していません。
死ねばまた他の世界に輪廻する可能性を考えると、悩みますよね^^;
なので、天上界も救いを求める世界の1つなんです。
この、六道輪廻から脱出するには悟りが必要です。
悟りを開いて極楽浄土に向かうことが出来れば、これまでの悩みとは無縁になるというわけですね。
この、六道の様子を描いたのが聖衆来迎寺に伝わる六道絵です。
全部で十五幅伝わっています。
- 第一 閻魔王界
- 第二
等活地獄 - 第三
黒縄地獄 - 第四
衆合地獄 - 第五
阿鼻地獄 - 第六
餓鬼道 - 第七
畜生道 - 第八
修羅道 - 第九
人道九不浄相 - 第十
四苦の相 - 第十一
後の四苦の相 - 第十二
無常相 - 第十三
殺父業因 - 第十四
念佛の証拠 - 第十五
天道
これらは普段、京都国立博物館や琵琶湖文化館等に分散して寄託されているので、普通の日に来ても見れないのですが、8月16日の虫干し会の時だけは帰ってきます。
訪れてみると、本堂の扉が開いていて、本堂内の外陣にかけられていました!
本堂の外側から、写真が撮れる最大限まで寄って撮ってみました。
こんな感じで展示されています。
絵だけでなく、解説するパネルも下に設置されていて、どういう状況の絵なのか非常に分かりやすくなっています。
ただし、本堂外陣で見れるのは、本物そっくりに描かれたレプリカです。
とはいえ、それでも300年以上前に描かれたレプリカで、細かいところまで巧みに描かれています。
「六道絵」として本などに紹介されているのはこちらでしょうね。
十分に見る価値があります。
また、この日は一応、本物も2、3幅帰ってきて展示されます。
今年は、第二幅の「等活地獄」、第九幅の「人道九不浄相」、第十幅の「四苦の相」が帰ってきていました。
しかし本物は傷みがあって、消えかかっている部分もあります。
それに、暗い部屋で展示されていますし、遠目でしか見せてもらえませんので、作品としてはわかりにくいかもしれません。
本物は本物としての重みがありますが、見やすさだけだとレプリカでも十分でした。
聖衆来迎寺に伝わった六道絵は、実は半分だけだった!?
聖衆来迎寺に伝わった六道絵は全十五幅。
実は元々この作品は「十界図」として書かれたもので、当初は源信が晩年に過ごした比叡山延暦寺の横川に伝わり、全三十幅あったんです!
その半分が聖衆来迎寺に預けられ、その後信長に焼き打ちに合っているので、残り半分は焼失してしまったんですね^^;
焼けてしまった絵はどんな絵だったのでしょうか?
それは、天台宗の教義で、六道の上に置かれた4つの世界(
四聖には、
- 仏界:悟りの世界
- 菩薩界:悟りを求めて修行し、他の者も悟りに導こうと務める者の世界
- 縁覚界:自ら自然の中に入り、悟りを開こうとする者の世界
- 声聞界:仏教の教えにより悟りを開こうとする者の世界
があります。
天台宗では、四聖と六道を合わせて「十界」としています。
なので、六道絵と呼ばれているものは、本来なら”十界絵”とでも言うべき絵だったんですね^^
どんな絵だったのか、気になるところです。
六道絵だけじゃない!聖衆来迎寺の文化財
聖衆来迎寺は、境内はそんなに広くありませんが、「近江の正倉院」と称されているお寺です。
しかも、焼き打ち前に他の寺から預かったもので、そのまま返すところもなく残っているものもあるのです。
そして2014年にはさらに、本堂と開山堂、表門の3棟が国の重要文化財に指定されることになっています。
まずはこちらの表門。
こちらは、明智光秀が居城していた坂本城の城門を移築した門です。
県内最古の城門で、坂本城の遺構であることが解体修理でわかったのだそうです。
お次は本堂。
こちらは、信長の焼き打ちは逃れましたが、その後落雷で全焼してしまったのだそうです^^;
しかし、寛文5(1665)年に再建し、現在に至ります。
天台宗寺院本堂の典型的な形を残す建物になっています。
そして珍しいのは、建物周囲の縁。
縁側は板敷き状にするのが一般的ですが、こちらは木造風にした花崗岩の石敷きになっています。
これは、地理的な特性が関係しています。
製衆来迎寺は、琵琶湖からほど近いところにあるのですが、時々琵琶湖の水位が上がって、この高さくらいになることがあったのだそうです。
その時はこのお寺は地元民の避難所にもなっていたそうですが、そういうことがたびたびあるので石敷きにしているのだとか。
本堂内陣の中央にはご本尊が三尊祀られています。
向かって左に釈迦如来、右に薬師如来、中央に阿弥陀如来が安置されています。
釈迦、薬師、阿弥陀と言えば、それぞれ過去、現在、未来を守護してくれる如来様です。
しかし、最初からこのように祀られていたのではなく、建築年代が鎌倉、室町、江戸と違うことから、一体ずつ増えていったようなのです^^
こちらは外陣から参拝するだけでなく、近くまで寄って拝観することができます。
お顔をよく見ると、作者が全然違うことがわかります^^
お次は客殿。
客殿は、本殿から繋がっていて、そこから拝観させてもらえます。
客殿には聖衆来迎寺に伝わる寺宝が多数安置されていますし、狩野探幽率いる狩野派の絵師が描いた襖絵が普通にあります^^;
先ほど述べた、3幅の本物の六道絵もこちらに展示されていました。
こちらには、湖国十一面観音霊場の札所にも指定されている木造十一面観音像の他、光明皇后や聖徳太子の写経、吉田織部作の織部焼、天海僧上の袈裟や杖などがありました。
中でも注目なのは、絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図。
パンフレットより
来迎図は平等院などでも見ることができますが、こちらは源信作として伝わっているもので、お寺の縁起にも関わるものです。
よく本にも出てくる、源信の肖像画もありました。
聖衆来迎寺の御朱印
聖衆来迎寺の御朱印です。
湖国十一面観音霊場第3番札所の御朱印となっています。
聖衆来迎寺は、住職さんがお留守なことが多いようで、普通に訪れても拝観出来ません。
なので、あらかじめ予約が必要です。
人数がいないので観光には対応していないんでしょうね^^
しかも、文化財の多くは美術館や博物館に依託しているので、予約して開けてもらっても、拝観できるものは限られています。
そういうこともがあるので、文化財が帰ってくる8月16日の虫干し会に訪れるのがオススメです。
虫干し会は檀家さん達が受付や説明などをしてくれますし、予約も不要です。
拝観料は、普通の日は350円ですが、虫干し会の時だけは500円になります。
絵の下にわかりやすい解説がありますが、あくまで絵の中の人物が何をしているのか?という解説。
先にこういう本を読んで概念を勉強しておいたので、興味深く拝観できました^^