滋賀県大津市にある天台寺門宗総本山 三井寺。
西国三十三所観音霊場 第十四番の名刹で、歴史的にもかなり大きな影響を与えているお寺です。
2014年は天台寺門宗の開祖「円珍」の生誕1200年となる記念の年。
当サイトのFacebookページでも何度か紹介しているのですが、三井寺では秘仏の御開帳や記念イベントが行われています。
この間記事にした大津市歴史博物館の「三井寺 仏像の美」も関連イベントの1つです。
智証大師 円珍ってどんな人?
(画像:大津歴博だより2010 No81より)
円珍は、第五代天台座主を務めた天台宗の僧侶です。
「伝教大師 最澄」、「慈覚大師 円仁」と並び「天台三聖」の一人に数えられます。
円珍が果たした大きな役割は、唐に渡って本格的な密教を学び、その教えを天台宗にもたらしたことです。
天台宗を開いたのは「最澄」ですよね。
最澄は唐に渡り、本場の天台山で天台教学(法華経)を学びました。
同時にその当時唐で流行していた念仏、禅、密教も学び、日本に持ち帰ります。
ただ、最澄は唐に滞在する時間が限られていたので、密教については習得が不十分なまま帰ることになったのです。
日本に帰った後、最澄は天台宗を開きますが、その教えの基礎を法華経に置きつつも、密教、禅、念仏も教学に取り入れた総合仏教を目指しました。
しかし密教の部分が弱かったので、天台宗の教えとしてはまだ課題を抱えていたわけです。
最澄亡き後に登場したのが円仁と円珍です。
二人はそれぞれ唐に渡り、それぞれが密教を学んできたので、ここで天台宗の教学が確立したわけです。
円珍は、唐から持ち帰った経典類の置き場として三井寺を選びました。
それによって三井寺は、天台別院として栄え、現在の位置づけが築かれたのです。
ちなみに、円仁と円珍は互いに認めあい、力を合わせて天台宗を盛り上げていました。
しかし、後の時代に弟子たちの派閥争いで円仁派である山門派(比叡山延暦寺)と円珍派である寺門派(三井寺)に分かれてしまったのです。
そのような経緯で三井寺は、天台寺門宗になっています。
今回行われている注目のイベント
三井寺の門前ではデジタルサイネージを使って広告を出していました。
さすがお金持っていますね^^;
今回注目のイベントはこちらです。
【秘仏公開】
- 唐院大師堂:国宝 智証大師坐像(中尊大師)
- 唐院大師堂:国宝 智証大師坐像(御骨大師)
- 唐院大師堂:重文 黄不動尊立像
- 唐院大師堂:結縁灌頂 執行 国宝 黄不動尊画像
- 観音堂:重文 如意輪観音坐像
【特別公開】
- 国宝 観学院客殿
- 国宝 光浄院客殿
【記念イベント】
- 井浦新写真展 「三井寺鑽仰」
【一般公開】
- 文化財収蔵庫 開館
です。
文化財収蔵庫は新しくオープンした、ということなのでこれからいつでも見れるのですが、その他は今だけのもの。
11月24日までなので見逃す手はありません。
信仰のよりどころの中心地、唐院 大師堂
三井寺には「唐院」と呼ばれる場所があります。
大師堂、潅頂堂、三重塔、護摩堂があって、合わせて「唐院」と呼ばれています。
この場所は円珍が唐から持ってきた経典や法具などを納めている場所であったり、それを弟子に伝えて行く伝法潅頂の道場であったりなど、寺で最も重要な場所とされています。
三井寺には金堂があって、お寺としての中枢は金堂になるのですが、天台寺門宗の信仰のよりどころとしては唐院が中心、という感じですかね^^
普段は中に入ることは出来ず、三重塔と潅頂堂の前を通り過ぎるだけなのですが、今回は特別に潅頂堂の後ろにある大師堂に入ることができます。
特別拝観料は500円。
拝観できる秘仏は三体です。
御骨大師 (向かって左)中尊大師 (中央)- 黄不動尊立像(向かって右)
それぞれ厨子に入っていますが、狭いお堂の中に上のような三尊形式で祀られています。
御骨大師も中尊大師もどちらも円珍の像です。
同じお坊さんを同じ場所に2体祀るって、変な感じがしますよね^^
この配置には歴史的な背景があります。
まず黄不動尊ですが、これは円珍が坐禅中に感得したお不動さんで、大師を守護すると約束してくれた仏様です。
本来は仏画なのですが、それを元にして彫刻として忠実に模刻したものです。
鎌倉時代に作られたもので、像高159.8cm。
別名「金色不動明王」とも呼ばれていますが、本当に金色のような輝きでした。
円珍は黄不動尊を感得してすぐに絵師に仏画を描かせたそうですが、立像まで作っていることから、よほど不動尊を信仰していたのでしょう。
そのような理由があれば、黄不動尊が大師像の脇侍としてここ置かれる理由はわかります。
面白いのは、中尊大師と御骨大師ですね。
大師堂の本尊となっているのは中尊大師です。
大師堂の中心にいるから中尊大師と呼ばれています。
これは、円珍が亡くなって100年後に作られました。
御骨大師の方は、右ひざが左ひざよりもちょっと出ていたりといった体のクセなど人間的な特徴も忠実に表したお像です。
円珍は891年に亡くなったのですが、御骨大師はその後すぐに作られた像で、円珍の遺骨も入っています。
いわゆる生き写しですね^^
それを考えるとこちらの方が本尊としてふさわしそうなのですが、三井寺では生き写しの御骨大師よりも中尊大師の方が大事なんです。
普通だったら逆というのは現代人の感覚で、宗教的には中尊大師が守り神のようなものなので信仰の対象となっています。
仏様なんです。
それに対して御骨大師は信仰の対象ではないんですね。
こちらは祖師像という位置付け。
その理由を知るためには歴史をさかのぼる必要があります。
円珍没後、比叡山では山門派(円仁派)と寺門派(円珍派)のいざこざや、どちらの派閥でもない(どちらかというと円仁派)元三大師 良源などの台頭もあったりして、寺門派の一部は山を降り、京都岩倉の実相院に移りました。
御骨大師は元々比叡山にあったのですが、円珍派が山を降りた時に実相院に持って降りたのです。
なのでその後は比叡山の上には円珍像はなくなっています。
その後、円珍の100回忌が近づいてきたのですが、派閥争いがある中でも100回忌の法要を比叡山でもやらないといけないだろうという機運になってきたのです。
そこで本尊となるべき像を作ろうと考えました。
それが中尊大師です。
100回忌を行った2年後、山門派と寺門派の争いが激化して、まだ延暦寺に残っていた円珍派は全員山を降りることになります。
最初は岩倉の実相院に集まったのですが、その5年後に三井寺に来ました。
その時に中尊大師も山から降りてきたのです。
その頃には中尊大師は円珍派のご本尊として扱われていたので、唐院大師堂の真ん中に中尊大師が置かれることになったのです。
一方、100年前のちゃんとしたお姿を現した御骨大師は、別名「お倉大師」とも呼ばれていて、円珍が唐から持ってきた貴重な書物などを納めるお倉に置きました。
つまり、御骨大師は書物を守る祖師という形になったわけです。
残念ながら、三井寺は何度も焼き討ちにあっていて、お倉も焼かれているので御骨大師は帰るところがありません。
なので、仮住まいとして中尊大師の横に置かれているのです。
といっても、鎌倉後期の資料には既に出てきているので、何百年も仮住まいしているんですね^^;
長くなりましたが、2体の同じお坊さんを配置しているのはそのような理由です。
ちなみに、中尊大師は御骨大師を写して作ったわけではなさそうです。
どちらも円珍という同一人物を表しているので似ていることは似ているのですが、服装が違うし、シワのつけ方も違います。
さらに御骨大師の方は体が微妙に歪んでいて、人間的なクセや特徴を表しているのに対して、中尊大師は均整がとれた仏像のようです。
作られた経緯の違う僧像が今では一緒に置かれているんですね^^
33年に1度のみ御開帳の秘仏、如意輪観音を祀る観音堂
現在、三井寺南院の中心となっているのがこの観音堂。
御本尊は如意輪観音で、西国三十三所霊場を巡っている方はこちらにお参りに来ます。
こちらの如意輪観音は33年に1度しか御開帳しない秘仏ですから、普段は観音堂の外陣から内陣の奥にある小さなお前立ちの像(本尊の代わりとなって前に置かれる像)が見えるだけ。
しかもお前立ちですら遠いのでなかなか見えません。
でも今回は特別に内陣に入って、お前立ちの後ろまで回ることができました。
特別拝観料は200円。
こちらが如意輪観音さんのお姿です。
像高91.6cm、平安時代に寄木造で作られた仏像です。
今まで一木造と考えられていたのですが、最近の調査によると寄木造だとわかったのだそうです。
単体で厨子に入れられていて、左に毘沙門天、右に愛染明王を置く形式でした。
それをものすごい間近から見ることができました。
如意輪観音の膝を立てて考えているポーズはどこかセクシーさを感じるのですが、こちらの像は綺麗に残っていることもあり、優美なお姿でした。
中世の遺風を伝える光浄院客殿・観学院客殿
光浄院客殿と観学院客殿は三井寺の子院の1つです。
「書院造」の代表的遺構ということで、いずれも国宝に指定されています。
下は光浄院客殿。
建物を外から眺められたのですが、入口から建物までの距離が短いので、全体を撮ることができなかったのが残念です^^;
光浄院客殿は、慶長6年(1601年)、豊臣秀吉に仕えた武将で三井寺の僧でもあった山岡道阿弥によって建立されました。
桁行7間、梁間6間、柿葺の入母屋造でそんなに広いわけではありませんが、建物に上がって縁側から部屋の中や名勝史跡に指定されている庭を見ることができます。
各部屋には狩野派が描いた障壁画が残っているのですが、その中でも狩野永徳の長男、狩野光信の貴重な作品が残っているんです。
光信の作品は、戦乱で失われているものが多いですからね。
光信は力のある人物なのですが、「下手右京」と呼ばれて酷評されていたそうです。
なぜなら当時の狩野派の様式は武将好みのもので、父である永徳のような荒々しい絵が主流で好まれていたのですが、光信の絵は狩野派の割にはもうちょっと優しく、どちらかというと公家好みの華やかな襖絵だったんです。
なので評価が低かったんですね。
しかし光浄院客殿の障壁画は、永徳とは違う繊細な作品で、その後の狩野派に大きな影響を与えているそうです。
観学院客殿は、門から建物の入口まで路地で繋がれていて、建物の全貌を見ることができません。
建物の構造としてはどちらも似てる感じですが、光浄院客殿の方が若干広いそうです。
そしてこちらは観学院客殿のの庭。
綺麗に整えられていて素晴らしいのですが、何より静かで外からの雑音が何も聞こえない感じの雰囲気が気持ち良い場所です^^
こういうところでのんびりとただ座っているのも良い感じです♪
こちらの襖絵にも狩野光信が関わっていますが、そのほとんどは新しく出来た収蔵庫に移動しているので、そこで拝観できます。
井浦新写真展 「三井寺鑽仰」
俳優で日曜美術館の司会も務める井浦新さんの写真展が三井寺観音堂の書院で行われています。
入場は無料です。(別途 入山料は必要)
この写真展は、三井寺内の仏像や護摩供、智証大師御祥忌法要などの場面をカメラに収めたものですが、テーマとして祈りなど「目に見えないもの」を感じ取れるような作品に仕上げていました。
迫力ある金剛力士をさらに顔のアップで撮ったり、妖艶なお姿の護法善神など目を引くものがありましたが、私が一番好きなのは、上の写真にある尊星王の写真。
尊星王というのは、北極星を神格化したもので、あらゆる星の中でも中心にいて動かない北極星は、全てを司る存在であると信仰されています。
※画像:ポストカードより)
片足で立って右足を後ろにかけ、月や日を手に持つお姿がかかっこいいんですよね^^
この尊星王の像は金堂の裏に回る回廊で祀られていて、いつでも間近で拝観することができます。
上の写真は尊星王を中心に置き、周りに星が回るように捉えた写真です。
こうすることで、北極星という神の姿が見えるようにしているんです。
「信仰」というのは目に見えないものですが、このように見える化すると面白いですね^^
2014年10月にオープンしたばかりの文化財収蔵庫
2014年10月19日に、三井寺山内にある別院 微妙寺の前にオープンした文化財収蔵庫。
中はそんなに広くないので、15分くらいで見れる感じなのですが、ここが出来たことで今まで秘仏だった仏像がいつでも見れるようになりました。
見れて一番嬉しかったのは、今まで護法善神堂の左脇に安置されていた
鬼子母神とも呼ばれていて、元々は子供を食べる悪い神だったのですが、釈迦によって改心して子供の守護神となった女神です。
護法善神堂は千団子まつりの時にしか御開帳されませんし、なかなか機会がないのですが、護法善神立像は大津市歴史博物館の「三井寺 仏像の美」展で見ることができましたし、訶梨帝母倚像もここで見れて満足です^^
※写真:文化財収蔵庫のパンフレットより
子供が何かを指しているように見えますが、実はこれは、母である訶梨帝母の髪で遊んでる姿なのだとか。
今はその髪は失われていますが、実物をよく見ると、髪が伸びていただろう様子がわかります。
実物は、像高43.9cm と意外と小さいです^^
そして、収蔵庫で一番大きく場所をとって収蔵しているのは、今まで観学院客殿にあった狩野光信による襖絵です。
※写真:文化財収蔵庫のパンフレットより
襖絵はいつも遠くからしか見れないものですが、収蔵庫にきたおかげで数十センチほど目の前で細かいところも見ることができます。
その他、智証大師坐像や尊勝曼荼羅図、両界曼荼羅図、密教法具なども収蔵されていました。
御朱印&御影
今回のイベントでは特別な御朱印と御影を頂くことができました♪
まずは黄不動尊の御朱印です。
唐院の前に設置されていた臨時の拝観受付で頂きました。
そして、拝観料を支払う時に頂いたのが、黄不動尊(唐院)と如意輪観音(観音堂)の御影です。
レシートほどの小さなサイズでした。
三井寺は歴史に深くかかわってきた名刹なだけあって、寺宝がたくさんありますね。
後は国宝の黄不動画像と、同じく国宝の新羅善神像が見れれば良いのですが、こちらはなかなか公開してくれそうにありません^^;
もし公開することがあればかなりのチャンスですので、見に行こうと思います。