祇園祭の山と鉾は、山鉾巡行の巡行順をくじ引きで決めます。
しかし一部の山鉾は、あらかじめ順番が決められていて「くじ取らず」と呼ばれます。
(昔は「かんこくぼこ」と呼ばれていました。)
順番は5番目、鉾では長刀鉾に次いで2番目に巡行することが決まっています。
函谷鉾は応仁の乱以前からある由緒ある鉾なのですが、数ある鉾の中でも先進的な取り組みをすることで知られています。
例えば、昔は山鉾巡行では必ず本物の稚児を乗せることが決まっていたのですが、天保10年(1839)に初めて稚児人形を置いたのは函谷鉾でした。
そしてかつては鉾に上れるのは男性だけ、つまり女人禁制だったのですが(今も長刀鉾と放下鉾は女人禁制です)、それを昭和24年に他に先駆けて解禁したのが函谷鉾です。
最近ではARやVRで函谷鉾の魅力を伝えるアプリや、LINEスタンプなどを作っています^^
それに対して長刀鉾は伝統を守らなければならない鉾ですので、稚児は毎年用意していますし、女人禁制も守っています。
お隣の山鉾町ですが、対照的で面白いですね^^
函谷鉾のキーワード「鶏鳴狗盗」
函谷鉾は、中国の故事「
この意味とエピソードを知ると、より函谷鉾を楽しむことができますので紹介します。
まず、この字には、
- 「鶏(とり)」が「鳴」く
- 「盗」む
という文字が見えますね。
そして「狗」は「いぬ」のことですが、そこにはもう一つ、「スパイ」や「まわしもの」という意味があります。
まとめると、鶏の鳴きまねをして人を欺いたり、狗のように忍び込んで物を盗むことしかできない者、となります。
それが転じて、そのような者でも使い方によっては役に立つ、という意味で使われるようになっています。
その鶏鳴狗盗の意味ができたエピソードがあって、そこに登場する人物が、中国の政治家、
実は函谷鉾の長~い真木の上の方に、天王人形という人形が飾られているのですが、このモチーフは孟嘗君なのです。
(私は望遠レンズを持っていないので、ここまでが限界でした^^;)
孟嘗君は紀元前270年頃、中国の戦国時代にいた「斉」出身の人物です。
戦国四君の一人に数えられています。
そして父は斉王の異母弟でしたので、それなりに身分が高い立場にありました。
そういうところで育った孟嘗君は賢い人物になっていたわけですね。
孟嘗君は、「どんなことでも一芸があれば拒まず」の精神で、自分に仕えたい者はどんどん受け入れました。
その数は数千を数えるほどだったそうです。
その中には、鶏の鳴きまねしかできない人物や、盗みしかできない人物もいたのだとか^^;
普通なら、「こんな人物をなぜ・・」と思うところですが、それでもそこに先見の明を働かせたのが孟嘗君のすごいところ。
こんなエピソードがあります。
孟嘗君の名声を聞いた「秦」の王は、孟嘗君を宰相(国政を補佐する人)に迎えようと、国に招きます。
孟嘗君はそれに応えて秦に行ったのですが、国王の側近は、
「孟嘗君は斉の人物だから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いない。しかし、斉に帰せば秦の脅威となる」
と王に進言します。
そのことから屋敷を包囲されて命が危うくなった孟嘗君は、王お気に入りの侍女にとりなしを頼みます。
侍女はその見返りに孟嘗君の持つ宝物「
しかし狐白裘は、秦に来た時に王に献上していたので手元にありません。
それで悩みましたが、そこに名乗り出たのが、孟嘗君に仕えていた一人である狗盗(泥棒が得意なもの)です。
狐白裘は狗盗を使い、王の蔵から狐白裘を盗ませてきました。
こうして侍女のとりなしによって包囲は解かれ、難を逃れましたが、王はいつ気が変わるかわかりません。
そこで孟嘗君は急いで帰国しようと、夜中に国境の「函谷関」という関所にたどり着きます。
しかし函谷関は、夜中は門を閉じており、朝になって鶏の鳴き声で開ける規則になっていました。
その頃、王は既に気が変わっていて、追っ手を差し向けていたので、孟嘗君は困っていたのですが、そこで名乗り出てきたのが、仕えていた鶏の物まね名人です。
彼が鶏の鳴き声を真似ると、それにつられて本物の鶏も鳴き始めたので関所の門は開かれ、孟嘗君は秦を脱出することに成功したのです。
一方、王の部隊は夜明け頃に函谷関に到着し、孟嘗君が関所を抜けたことを知ると引き返しました。
鶏鳴狗盗の「たとえつまらない才能でも何かの役に立つ」という意味は、この故事から来ているわけです。
安心感をもたらせてくれる言葉ですね^^
長くなりましたが、函谷鉾にはこの故事にちなむ懸想品や装飾があります。
まずは鉾の一番てっぺん、兜のような形をした鉾頭。
函谷鉾のシンボルのような存在ですが、これは、「函谷関の山稜にかかる三日月」を現します。
そして、鉾の前後の軒裏にある絵にも注目。
まずは前の軒裏。
人物の彫刻が気になるところですが、今回は上の絵の方です^^
金地にオスとメス、そしてヒナの鶏が極彩色で描かれています。
そして後ろの軒裏。
こちらは金地に墨絵で描いた黒いカラスです。
金地は少し暗めにされています。
これらは
「鴉」はカラスのことなのですが、金地を少しだけ黒くして描くことで、夜明け前に飛ぶ「明けガラス」を表現しています。
それに対して前軒裏の鶏は、きれいな金地に、完全な色がわかる極彩色で描くことで「夜明け」を表現しています。
これらを二つ合わせて、夜明け前の函谷関を無事脱出できたことを意味している、というわけです。
函谷鉾の下水引「群鶏草花図」も鶏がたくさん描かれていて、故事にちなむ図になっています。
上は山鉾巡行の時の写真です。
群鶏草花図はこちら。
鶏がリアルに描かれたこの作品は、昭和13年に山鹿清華によって寄贈された手織綿の下水引です。
函谷鉾らしい懸想品ですね。
誰もが知っているモチーフも!函谷鉾の懸想品
函谷鉾の拝観券は1,000円。
購入して、函谷鉾に繋がっている町会所へ向かいます。
その前に、町会所で山鉾巡行の時に装備する懸想品を拝観。
まずは、函谷鉾の正面を飾る「前掛」として使われているのは、「イサクに水を供するリベカ」。
16世紀ベルギー製で、旧約聖書創世紀の説話を題材にしています。
1718年に寄贈されました。
寄贈された頃は江戸時代で、キリスト教禁制の時代ですよね。
その時代は隠していた、というのがよくある話ですが、「イサクに水を供するリベカ」は、そんな時代にも堂々と使っていたのだそうです。
なぜそれができたのでしょう?
それは、タペストリーが「水を汲む女」という名前だったからです。
そのせいで、このタペストリーが実は旧約聖書が題材になっている作品であると、思いもしなかったわけですね。
このタペストリーは色鮮やかに描かれていてますし、当時の人は楽しげだと感じたのかもしれません^^
ただし上の写真は重要文化財に指定されたので、祭の期間中は町会所に飾られます。
現在巡行に出ることはほぼありません。
実際に巡行に使われるものは、2006年に復元新調されたもの。
宵山ではこの二つが並んで展示されていました。
下の写真が実際に巡行で掲げられる、復元新調されたタペストリーです。
文化財としての価値は重文指定されたものの方が価値はありますが、こちらは復元新調ということもあって色が鮮やかで、見やすいですね。
(2018年は、寄贈から300年を記念して、重文の方が巡行に使われました!)
前掛には別のパターンもあります。
こちらはフランスの有名な聖堂「モン・サン・ミッシェル」。
そこに飛行船や気球が描かれています。
誰もが知っているものがモチーフになると、親しみやすいですね^^
現代の染織作家、皆川泰蔵さんから平成10年に寄贈を受けたのだそうです。
新しいものを採用するのも、函谷鉾らしいのかもしれません。
次は鉾の後ろ姿を飾る「見送り」。
函谷鉾ではこちらの「
文字柄を使うのは、他の山鉾にはないので非常に珍しいですね。
密教経典の一部から部分引用されたものなのですが、何が書いているのかわからないのでスルーしがち?かと思います^^;
ただ、こちらは天下の三名筆の一人とされる、弘法大師空海の真蹟と伝わる金剛界礼懺文を模織したものです。
つまり、弘法大師はこんな字を書いていたのか、というのがわかる見送になっているんです^^
山鉾巡行の時は文字の美しさまで見ることは難しいですが、宵山飾りでは間近でじっくり見ることができます。
現在の金剛界礼懺文見送は、天保年間(1831~1845年)に複製織されたもの。
実はそれより古いものは、京都を焼き尽くした天明(1788)の大火で焼け、傷んでいたんですね。
それを天保の鉾再興時に、大師流書家の方々が筆写して、より立派に新調したのだそうです。
天保年間から180年以上経っていますが、そんなに年月が経っているとは思えないほどきれいですね。
稚児人形の先駆けとなった函谷鉾
現在の山鉾巡行では、鉾に稚児人形が乗っています。
先頭を行く長刀鉾だけが本物の子供を乗せていて、「生き稚児」と呼ばれています。
でも、昔は鉾すべてが生き稚児を乗せていたんです。
函谷鉾でも生き稚児を乗せていたのですが、それを初めて人形に変えたのが函谷鉾です。
その人形がこちら。
ちゃんと名前もあって、「
嘉多丸は、かつて函谷鉾町に住んでいた仏師「七条左京」という名工が造りました。
本物の人間そっくりですが、嘉多丸にはちゃんとモデルがいます。
それが時の左大臣、一条忠香卿の長男である「
(明治天皇の后である「昭憲皇太后」の実兄です。)
稚児人形に変えたタイミングは、天明の大火から復興を遂げた、天保の鉾復興時。
その復興記念に実良君が稚児として函谷鉾に乗る予定でした。
ただ、実良君の健康状態が思わしくなかったので中止になり、代わりの稚児が必要な状況になってしまいました。
しかし当時の函谷鉾は、南側も武家・松平阿波守の屋敷が、北側は公家の鴻池家の屋敷があり、町人が少ない町でした。
そんな中で代わりの稚児を探すのは難しい状態でした。
そこで函谷鉾では、生き稚児を出せるまでの間、稚児人形でやらせてもらうよう、お役人から許可を頂くことにしました。
そして函谷鉾町にゆかりのある仏師七条左京に人形の制作を依頼したわけです。
七条左京は仏師としては名を残すほどの名工なのですが、人形を制作するのは初めてです。
どのような姿にしたらよいか困っていたのですが、左大臣・一条忠香に相談したところ、実良君をモデルになってもらうことになりました。
そして一条家に出向いて実良君の姿を模写して製作にあたり、天保10年(1839)に出来あがったのが嘉多丸です。
これが祇園祭第一号の稚児人形です。
その次に作られたのが文久3年(1863)の鶏鉾の稚児人形(人形名不詳)。
その他は1900年代になってから作られていきます。
第二号の鶏鉾でも24年も後ですから、まさに他の鉾に先駆けて作られたわけです。
それにしても、人形を使うのは生き稚児を出せるまでの間、という約束だったはずですが、いつの間にかちゃっかり定番になっていますね^^
写実的に作られているのでリアルですし、生き稚児と同じように扱えば問題ないと考えたのかもしれません。
函谷鉾に搭乗
いよいよ函谷鉾に搭乗です^^
大通りに面しているので、下からたくさんの人が見上げていました。
提灯の間からはお隣の町内にある長刀鉾が見えます。
鉾の後方には月鉾が見えます。
天井には、「長寿をもたらす夜明けの吉兆鶴」という名前の天井幕。
タイトルにその思いがすべて込められていますね^^
ARとVRで函谷鉾の魅力を伝えるアプリ
函谷鉾でこちらの冊子をいただきました。
函谷鉾のことが紹介されているのですが、それだけでなく、この冊子の表紙には秘密があります。
スマホをこの表紙にかざすと、なんと函谷鉾が3Dで出てくるんです!
冊子をぐるっと回転すると、360度いろいろな角度から見ることができます。
前掛けの「イサクに水を供するリベカ」や、下水引の「群鶏草花図」も、きれいに見れます。
この3Dモデルを見るには、「Kankoboko AR」というアプリが必要です。
アンドロイドでもiOSでも用意されていて、無料で使うことができます。
冊子の表紙の方は、アプリからダウンロードすることも可能です。
それを印刷して使うと良いですね。
このアプリではさらに、VR技術を使って函谷鉾の中からの視点で提灯落としの様子を見ることができます。
つまり、スマホを持って360°見渡すと、中の様子をぐるっと見渡すことができるわけです。
気軽にVR体験ができて、面白いですよ^^
御朱印
最後に、函谷鉾の御朱印です。
「函」の文字のスタンプになっています。