海の神様として信仰されるこんぴらさん。
上の写真はこんぴらさんの中心地、金刀比羅宮の拝殿です。
麓から785段の高い場所にあります。
御本宮の前は展望台になっていて、遠くの讃岐富士までよく見えます。
御本宮の場所は上の写真くらいの高さなのですが、金刀比羅宮には
正式には
奥社までは、麓から1368段という、御本宮までの段数と倍近い高さ。
御本宮を参拝して帰っていく人も多いのですが、奥社まで行ってみることにしました。
その前に、麓から御本宮までのレポートはこちら↓
奥社までの道のり
奥社は、御本宮横の展望台側から行くことができます。
ここから先は山伏信仰の跡をたどる道です。
うっそうとした木々に覆われた道で、連続してきつい階段も登場します。
御本宮までで「疲れた」と言っていてはいけませんね(≧▽≦)
途中、常盤神社、白峰神社、菅原神社を通って、奥社である
御本宮から583段、片道30分の道のりです。
御本宮の北透垣をたどって歩いていくと、鳥居が現れます。
そこが奥社道への入り口です。
戦いの神を祀る常盤神社(832段目)
うっそうとした割と平坦な参道がのびています。
傍には北原白秋の歌碑があります。
「守れ権現 夜明けよ霧よ 山はいのちの みそぎ場所」
力強い歌ですね。
山伏修行の様子が頭に思い浮かびます。
鳥居から歩いて4、5分、何やら社が見えてきました。
832段目、最初のお社の「常盤神社」です。
御祭神は
武雷尊 誉田和氣尊
です。
武雷尊は、日本神話の天孫降臨に先だって、大国主命と国譲りの話し合いをした神様。
誉田和氣尊は応神天皇のことで、全国の八幡神社で祀られている八幡神のことです。
いずれの戦いの神様ですね。
日本三大怨霊の一人、崇徳天皇を祀る白峰神社(923段目)
そして923段目、常盤神社からちょっとのところには朱塗りの立派な神社があります。
白峰神社に到着。
御祭神は、
崇徳天皇 待賢門院 大山祇神
です。
白峰神社の主祭神、崇徳天皇は平安時代末期の天皇で、「菅原道真」「平将門」と並ぶ日本三大怨霊の一人でもあります。
そう言われると、お参りするのが怖くなってしまいますね^^;
でも神道では、災いを起こす怨霊の魂を鎮めれば、善良な神になる、というような考え方(御霊信仰)があります。
ビビらずにお参りしておきましょう(≧▽≦)
ではなぜ崇徳天皇がこの場所で祀られているのでしょう?
崇徳天皇は、保元元年(1156年)に起きた「保元の乱」という皇位継承争いに敗れ、京都から讃岐に流されてしまいました。
讃岐にきて9年間、金刀比羅宮境内の古籠所にお籠りになられたのですが、46歳で崩御されたのです。
保元の乱では、崇徳(兄)と後白河(弟)の権力争いなのですが、それが貴族や武士をも巻きこんで、それぞれが内輪争いになってしまうという、悲劇の戦いでした。
主な内輪の対戦は、
- 皇室:崇徳上皇(兄)vs 後白河天皇(弟)
- 摂関家:左大臣 藤原頼長(弟) vs 関白 藤原忠通(兄)
- 源氏:源為義(父) vs 源義朝(子)
- 平氏:平忠正(伯父) vs 平清盛(甥)
という感じです。
どちらが勝っても、胸にしこりが残りそうですね^^;
この戦いで負けた崇徳天皇は讃岐へ流罪となったのですが、その後は乱で亡くなった人々への供養の為に、写経をする毎日だったそうです。
そして溜まった写経を朝廷に送り、「寺に納めて供養してほしい」と頼みます。
しかし後白河天皇は「呪詛で都をおとしめるものである」と、突き返しました。
それに起こった崇徳院は烈火のごとく怒り、「日本国の大魔王となってやる!」と、舌を噛み切ってその血で経を書き、髪も爪も伸ばし続け、天狗の姿になって死んでいったのだそうです。
それほど込められた「念」が、京の都では怨霊として恐れられたわけですね。
崇徳院は崩御された後、讃岐白峰陵(香川県坂出市の白峰山)に葬られましたが、金刀比羅宮には深い由緒があったので、ひそかに御霊を迎えて翌年の永万元年(799年)に、御本殿の御相殿に合わせ祀られました。
その後、明治十一年に金刀比羅宮の摂社「白峰神社」としてお祀りすることとなったそうです。
その時、相殿に、崇徳院の母である待賢門院、山の神である大山祇神が合わせて祀られました。
白峰神社の横には社務所があって、御朱印を頂くことができました。
ちなみにこの場所は、紅葉谷と呼ばれていて、その名の通り紅葉の時期になるときれいなのだそうです。
学問の神、天神様を祀る菅原神社(974段目)
鳥居をくぐって、上へ上ります。
次の社は50段ほど一気に上ったところにあります。
50段ほどですが、これまで結構登ってきているので、この辺までくると結構きついです^^;
そして見えてきました、974段の菅原神社。
ここで祀られている御祭神は菅原道真。
偶然にも、先ほど日本三大怨霊に挙げられたもう一人ですね(≧▽≦)
でも安心してください。
菅原道真公は、全国の天満宮で、天神様として祀られている神様です。
文筆の神様、学業の神様として人気ですよね^^
なぜここで祀られているのか?
実は道真公は、讃岐国司の長官「
意外にもゆかりがあったんですね^^
つづら折りの道がキツイ!最終目的地「厳魂神社」
菅原神社から先は階段の連続。
山道のように大きくくねくねする階段の参道が続きます。
菅原神社は974段目ですから、そこから一気に1368段目までの階段。
ここが正念場です^^;
折り返しポイントまできても、また階段。
そして息を切らしながらもついに、1368段目、ついに奥社の
ここまでくるとさすがに空気が気持ち良いですね♪
向こうには社殿が見えます。
社殿の横にはゴツゴツとした断崖。
下の方はわざと削ったような感じになっています。
この、削ったような岩を
そして、社殿横の崖の上には、天狗の面が掲げられています。
「左 烏天狗、右 天狗」と書かれていますが、どこにいるかわかりますか?^^
もう少しアップしてみます。
写真の中央ら辺を探してください。
左は口が大きくて前に出るように強調した面、右は鼻が高い面が掲げられていますね^^
そしてこちらが社殿。
元々は「威徳殿」といわれ、絵馬殿の付近に鎮座していたそうですが、後に厳魂神社と改称され、明治38年に現在の場所に移ったそうです。
御祭神は
聞いたことのない名前ですね^^
それもそのはず、古事記や日本書紀に書かれている神様ではありません。
この神様は元々、戦国時代に、現在の金刀比羅宮を管理していた象頭山松尾寺金光院の第四代別当職 「
神仏混淆の時代に入って、金刀比羅宮は真言宗の象頭山松尾寺金光院が管理する神仏習合の寺社でした。
よく、神社とお寺の区別がつかないという方がおられます。 でも、それはおかしなことではありません。 歴史を紐解けば、区別がつかないのも当然の流れなんですよね^^ そのカギを握るのが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」です。 …
そして、その寺社を管理するのが別当です。
宮司さん、もしくは住職さんみたいなものですね^^
戦国時代になってから、金光院は荒廃していたのですが、宥盛が別当となってからは当山の整備に努め、金比羅信仰は元気を取り戻したわけです。
いわば宥盛は、金毘羅信仰の中興の祖ということですね。
宥盛は山伏として山での修行も行っていて、厳魂神社のあるこの場所は宥盛が修行をした場所とされています。
岩が削られているようになっているのも、修行をしていた痕跡なんですね。
宥盛は死ぬ間際、当山を守護することを誓って天狗となったという伝説があります。
厳魂神社の社殿は、金刀比羅宮の御本宮の方向を向いて建っています。
「当山を守護する」といった宥盛の伝説に基づいているのでしょうね。
そして修験道が盛んになると、金毘羅大権現の眷属(付き人のようなもの)は天狗とされるようになりました。
それも宥盛の伝説によるものなのかもしれません。
江戸時代になると、白装束に天狗の面を背負った金比羅信仰者が金比羅信仰の布教に努めたそうですから、天狗は金比羅信仰のシンボルとなっているんですね。
そしてこちらが厳魂神社からの眺めです。
御本宮よりもはるかに高いですね^^
こちらは厳魂神社の社務所で頂いた御朱印です。
奥社からの帰り道。
結構長い道のりを上ってきたことを実感^^
帰りは足取りが速く、40分くらいで石段一段目の麓に着くことができました♪
奥社のみで販売されている天狗のお守り
2017年1月から、奥社で新しいお守りが誕生しました!
それがこちらの「ニュー天狗守り」。
諸々の災厄から身を守ってくれるお守りです。
赤と白の2種類から選べます。
1体800円。
なかなかカッコイイですね。
このお守りは、御本宮前の授与所では販売されていません。
奥社まで来て初めて手にすることのできるお守りです。
欲しい方は、奥社まで頑張ってください^^