京都・嵯峨野にある清凉寺。
通称「嵯峨釈迦堂」と呼ばれている、浄土宗の古刹です。
紫式部の小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルといわれている「
嵯峨釈迦堂には、日本三如来の一つに数えられる釈迦如来、生身のお釈迦さまと呼ばれる霊像が祀られています。
ただ、釈迦如来像は普段は秘仏で、毎月8日の午前11時以降と、霊宝館が特別公開される4月・5月、10月・11月のみとなっています。
今回は霊宝館の秋の公開に合わせて行ってみました。
清涼寺 本尊は、インド、中国を経て日本にやってきた生き身のお釈迦様
清凉寺の御本尊、釈迦如来は、インドから中国を経て日本にやってきたことから、三国伝来の釈迦如来と呼ばれています。
そのお姿がこちら。
本堂で購入したポストカードです。
国宝 三国伝来釈迦如来立像/ポストカードより
衣文の流れがものすごいですね^^
首もタートルネックになっているような感じです。
髪は如来のシンボルともいえる
渦巻き型になっています。
お顔はやはりエキゾチック。
優しそうな笑顔をしていて、安心させられます。
このようなわかりやすい特徴を持った釈迦如来は全国にもあるのですが、その元祖は清凉寺のこの釈迦如来。
全国に広がったのはその模刻で、清凉寺式釈迦如来と呼ばれています。
この像が日本にもたらされたのは平安時代、10世紀末のことなのですが、注目されたのはその後の鎌倉時代。
釈迦信仰が流行った時期があります。
その時に、仏教の本場、インドで造られたことで知られていたこの像が注目されたわけです。
この像はお釈迦様が37歳の時のお姿を写しているといいます。
なので、釈迦如来の中でも特に由緒正しいと考えられていたんですね。
しかも、この像の内部からは絹で造られた五臓六腑や、シャリがたくさん発見されています。
五臓六腑を入れる例は珍しいですが、それほど生きているお釈迦様に見立てる、つまりお釈迦様の身代わりであるということに力が注がれた像というわけですね。
生身のお釈迦様が日本にやってきた経緯
このお釈迦様が、中国から日本に渡ってくるとき、ある霊験が伝わっています。
この像を日本にもたらしたのは、奈良の東大寺の僧で、清凉寺を開山した
それが模刻像ではなく、本物がきちゃったんですね^^
なぜそのようになったのか?
奝然上人は、中国やインドにわたって、真の仏法を日本に持ち帰りたいという思いを持っていました。
中国の五台山を巡礼していた奝然上人は、インドから伝わってきたお釈迦様の像があると知り、許可を得てそのお像を模刻することにしました。
模刻像が出来上がり、日本に帰ろうとしていたある夜、奝然上人の夢の中で、本物像が「日本に渡って仏法を広めたい」と願い、模刻像と入れ替わったのです。
そしてそのまま京都の嵯峨の地にやってきたというわけです。
これは一説に過ぎませんが、釈迦の生き身であるということを強調するために作られた話でしょうね。
でも、中国から渡ってきたことを強調するものが境内にも見られます。
清凉寺の入り口にある立派な山門。
この門の扁額には「五台山」の文字が。
清凉寺の山号は「五台山」なんです。
五台山は中国では古くから霊山として信仰されている山で、別名「清凉山」ともいいます。
さらに、門をくぐると、大きな本堂があります。
その背後にあるのは愛宕山。
これは、中国の五台山をイメージして境内が構成されたのだそうです。
清涼寺は源氏物語の主人公、源融ゆかりの地
嵯峨野はかつて、王朝貴族たちの別荘地として愛されてきた場所でした。
清凉寺の境内は、
源融は、嵯峨天皇の第12皇子で左大臣を務めていた人物で、一説では源氏物語の主人公、光源氏のモデルであったといわれているんですね。
境内にある多宝塔の後ろには、源融の墓もあります。
そのような場所が、なぜ現在のような三国伝来の釈迦如来を本尊とするお寺になったのでしょう?
源融は晩年、写経や造仏に着手したのですが、志半ばで他界しました。
融の子供たちはそれを完成させ、この山荘を棲霞寺というお寺に変えたのです。
その場所そのものといわれているのが、本堂横にある阿弥陀堂。
つまりここがかつての棲霞観で、棲霞寺の御本尊が祀られていたところとなります。
その御本尊というのは、阿弥陀如来。
観音・勢至菩薩とともに三尊形式なのですが、なんと、現在も霊宝館に安置されていて、特別公開時に見ることができます。
国宝 阿弥陀三尊/ポストカードより
三尊とも国宝に指定されていて、阿弥陀様は丈六の大きさ。
それが霊宝館の入り口にど~んといらっしゃって、すぐ近くで見れますから、ものすごく大きく感じられます。
重厚感があって威厳があり、なかなかの美仏なんです。
実はこの阿弥陀仏、源融が晩年に造仏を発願したもので、自分の面影を残すように造らせたのだそうです。
当時は「末法思想」の影響で社会不安が起こっていたんですね。
残念ながら本人は完成を見ずに他界してしまったのですが、自分の死が近いことをわかっていたのでしょう。
そして何より「美仏」というのが、源氏物語でイケメンぶりを発揮していたのに通じますね^^
話を戻しますと、このようにして山荘が「棲霞寺」というお寺になったわけですが、その後の永延元年(987年)、宋より招来した釈迦如来像を棲霞寺境内に釈迦堂を建てて祀るようになります。
この時点では釈迦堂は棲霞寺の一部だったんですね。
そして時代が下ると、先ほど説明した釈迦信仰の流行で立場が逆転し、釈迦堂の方が有名になって、こちらがメインになったのです。
現在の阿弥陀堂の方はパッとしない普通のお堂ですが、釈迦堂の方はものすごく大きな建物となっています。
この建物は、江戸時代になって、五代将軍の徳川綱吉とその母である桂昌院が寄進して建てられたものです。
清凉寺は戦乱や度重なる火災で焼失していますから、建物は割と後の時代になってからのものがほとんどなんですね。
しかしそうだとしたら、三国伝来の釈迦如来はともかく、丈六の阿弥陀仏はどうやって避難できたのでしょう?
その辺も気になりますね。
清涼寺の御朱印
清凉寺には、釈迦如来の御朱印と、京都十三佛霊場の御朱印があります。
どちらも「釈迦如来」ですが、若干朱印や墨書の内容が違います。
まずはノーマルの御朱印です。
京都十三佛霊場の御朱印です。
嵯峨釈迦堂は近くの嵐山とはちょっと違って、あまり紅葉のイメージはありませんが、本堂裏にある大方丈で、若干紅葉が見られました。
本堂を拝観すると、裏から庭に出ることができるのですが、嵯峨釈迦堂にこんな庭があるとは拝観するまで知りませんでした^^
また、清凉寺はグルメどころでもあります。
まずは境内の外には嵯峨豆腐の名店「森嘉」があります。
私は嵐山に来るたびにここの豆腐を買っています。
豆腐の香りが美味しいんですよ^^
テイクアウトで食べられるひろうすなども販売されていますよ。
森嘉のレビューも書いています。⇒嵯峨釈迦堂近くにある豆腐屋さん、嵯峨豆腐 森嘉のひろうすを頂きました。
そして、境内には茶所が二つもあります。
1つは湯豆腐の老舗「竹仙」。
湯豆腐屋さんなだけに値段はちょっとお高めですが、豆腐は森か胡麻豆腐などのお土産も販売しています。
もう一つはあぶり餅の大文字屋。
注文を受けてから炙る餅はサイコーです^^
こちらもレビューを書いています。⇒嵯峨・清涼寺境内 大文字屋のあぶり餅を食べました。