「煩悩」とは、人間の心を乱す、不幸の原因となるものです。
仏教では、人間の煩悩は108つあるとされています。

そんな煩悩の中でも代表格となるのが(とん)(じん)()の3つです。

これを「心の三毒」といいます。

  • 貪:むさぼり・必要以上に求める心
  • 瞋:怒り・憎しみ・妬みの心
  • 痴:おろかさ・愚痴・無知

三毒によって害を受けるのは、それを起こしている本人です。

二人の人が同じものを見ていたとすると、毒におかされている人だけは地獄の光景を見ているんですね~。

なので仏教では、煩悩は排除すべきものとして考えられています。

そしてその煩悩を焼いてくれる仏様が不動明王なのです。

読むだけで不動明王から力をもらえる本

この「読むだけで不動明王から力をもらえる本 [PR]」には、

  • 不動明王がどういう仏様か?
  • 煩悩のこと
  • どのように祈りをささげればよいのか

といったことが書かれていました。

不動明王からお力をいただくために、よく理解しておかなければならないことが「煩悩」について。

煩悩とは何なのか?
上で紹介した貪瞋痴の説明が一般的に説明されているものですが、はたしてどこまで理解しているでしょうか?

この本を読むと、意外と知らないところでいつの間にか貪瞋痴に侵されていることに気づくかもしれません^^;

私はグサッグサッと心に刺さり、痛い思いをしました。

というわけで、心の三毒「貪瞋痴」について紹介します。

貪:「他人との比較」から生まれる煩悩

「貪」は「貪欲」ともいわれ、欲深く、際限なく欲しがる心です。
外部のものに価値があると思って執着してしまうんですね。

その根本的な原因となっているのは他人との比較
これがキーワードです。

欲を持つこと自体は悪いわけではありません。
健全な欲は人間を成長させますからね。
高級品、ぜいたく品を買うのもOKです。

問題はその動機です。

理想の状態と低い自己評価

人は、「理想の自分」を考える一方、自己評価もしています。

問題は、自己評価があまりにも低く、最低限こうありたいという状態にも届かない時に起こります。

低い自己評価をごまかすために、武器を得ることで背伸びしようとするのです。

これが「貪」の始まりです。

例えば、「有名な大学」というだけで、その大学で具体的な何かを学ぶという目的もないのに目指すとか、「ブランド」というだけでそれを選んでみたりとか。

そのような「貪欲」の背景には「他者との比較」があります。

他人にどう思われるかを気にしすぎて、軽んじられないように防衛反応が働くのですが、防衛のために何かを得ようとするのは「心が不健全」な状態です。

他者との比較を第一に生きると、本当は自分に必要ではないのに求めてしまったり、何かを手に入れても、もっと良いものを手に入れなければと躍起になります。

どこまでも他人に良く思われたいという焦燥感にかられて欲してしまうのです。

まさに、「欲深く、際限なく欲しがる心」ですね。

むさぼる心を持つと、自分の本当の価値が見えなくなってしまいます。
大切なのは、人の評価はどうあれ、自分にふさわしいと思えるもの、好きだと思えるものを選択することです。

謙遜は心のバランスを崩す

また逆に、「私にはふさわしくない」という謙遜。
こちらは、武器は欲していませんが、むさぼりの変形といえます。

適度な謙虚さは必要ですが、こちらがせっかく褒めているのに、必要以上に、

「いえいえいえ、私はダメです。」

と、褒めたことを全力で否定してくる人っていますよね^^;

そう言っておけば、期待される結果から外れた場合の防衛線をはることになります。
最初からハードルを下げておけば、非難されないと無意識に信じてしまっているんです。

そのような心もまた、価値観の低い自分を防衛する心なので、むさぼりと同じ心の構造を持っています。

自分にふさわしいものを選択することと同じくらい、等身大の自分に素直になれることも大切です。

瞋:「自己中心的な考え方」から生まれる煩悩

「瞋」は「瞋恚(しんに)」、「(いか)り」ともいうのですが、「怒り」の他にも、心の中の憎しみ、恨み、妬み、嫉みも含まれます。

どんなに功徳(人間として行うべき良い行為)を積んでも、1回の瞋りで台無しになってしまうといわれていますので、仏教の修行者には怖れられています。

キーワードは自己中心的です。

「他人のせい」「社会のせい」にしだしたら、自分を見つめなおす時

「瞋り」の難しいところは、瞋る側が「自分が悪い」と思っていない点です。
悪いことをしようと思ってやる人はそういませんから、あくまで被害者なんです。
でも、行き過ぎると加害者になってしまうんですね><

例えば「叱る」と「怒る」の違い。
親として未熟な人は「叱る」ではなく「怒る」になってしまう場合があります。

「叱る」は、時として子供を成長させる必要なものなのですが、「怒る」は感情の問題です。

子供が騒がしかったり、散らかしたり・・・

「叱る」の場合は、そういう「行為」が良くないということを言い聞かせたり、子供のためを思って知ってもらおうとする姿勢です。

しかし「怒る」の場合は、自分の不快感を解消するために、感情的に怒鳴ったりするわけです。
なので平気で人間否定をしちゃったりします。

自己中心的な思いが人を傷つけてしまうんですね^^;

子供のためではない、というのが「叱る」との違いです。

ただ、「叱る」を意識していても、いつの間にか「怒る」に変化していることがあります。
気をつけたいところですね^^;

「怒り」と「悲しみ」は表裏一体

「怒り」の感情の裏側には「悲しみ」や「情けなさ」があります。
「悲しみ」と「怒り」は表裏一体なんです。

「何故この子はそうなの?」

という怒りの裏には、「できない」という悲しみがあるのですが、「できない」が続くと

「しまいには情けなくなる」

となり、それも積もり積もると

「どうせ...」

となって、行き場のない怒りが噴出するわけです。

表裏一体なので、悲しみの裏に怒りが生まれる場合もあります。

例えば可愛がっていたペットが死んでしまった時、

「なんで死んじゃったの?」

と悲しむのですが、理不尽な死に対する怒りが次第に沸いてきたりします。
そういう怒りの裏には

「何で自分にこんなに寂しい思いをさせるの?」

という思いがあったりします。
ペットの辛い思いをくみとるのではなく、自分に不快な思いをさせていることに怒っているわけで、自己中心的ですよね。

自己中心的な思いから発展した「瞋り」は、目の前の世界を歪んで見せます。
そうなると真実を見誤ってしまいますので気をつけたいところですね。

しかし、ただ単純に、怒らないように、悲しまないようにしなければいけない、というわけではありません。

怒りや悲しみの気持ちを一切押さえていたら、我慢しすぎで人間はおかしくなってしまいますので、時には必要な感情なのです。
時間がたてば怒りも薄れてきますからね^^

でも、怒ってしまうと功徳が台無しになってしまうのが痛いところ><

じゃあ、どうするか?
そのやり場のない怒り、悲しい思いを不動明王に預けて祈るのです^^

痴:「歪んだモノの見方」から生まれる煩悩

「愚痴」というと、一般的には不平不満を口にすることをいいます。
仏教用語ではそれだけでなく、「愚かさ」ということまで広げた意味になります。

ここでのキーワードは、「歪んだモノの見方」

「痴」は「瞋」よりも難しい煩悩です。
なぜなら、人は自分がやっている行動を「愚か」だと思っていないから。
自覚のなさが「瞋り」以上なので、厄介なのです。

ダイエットをしたいと思いながらも食べてしまう・・・
という風に一時のことを優先して食べてしまう人、多いでしょう^^;

「わかっているんだけど・・・」

という人もいるかもしれませんが、思っている以上にわかっていないのです。
だから、「自覚がない」ということなんですね。

「愚痴」を言っていると、本質が見えなくなる

不平不満を言う「愚痴」という言葉は「愚か」という字が使われていますが、なぜ「愚か」なのでしょうか?
この本によると

「グチというのは、因果をわきまえず、現在の困難が我が身でしたことの結果であることを知らないのだ」

とのこと。
「因果」というのは、「原因」があって「結果」がある、その関係性のことです。
すべての結果(体験したこと)には必ず原因があります。

本からの引用した文を考えると、愚痴の原因は自分にもある、ということになります。

「そんなわけない!」

と思いたくなりますよね^^;
外的な要因が原因になっていることもあると思いますが、必ずしもそればかりではなく、知らないところで自分が愚痴の原因を導いていたり、助長していることだってあるのです。

それがミックスされると、紐を解くのは非常に難しい^^;

私たちの行動は「観念」によって支配されています。
「観念」というのは、自分は世の中をこんな風に見ている、つまり「自分が認識している世界」です。

  • 「〇〇をするような人はすばらしい。」
  • 「〇〇することはみっともない。」
  • 「〇〇すべきだ。」
  • 「〇〇すべきでない。」

といった価値観や道徳観は、人それぞれ持っています。

人生がうまくいかないときは、その観念が間違っている場合があるのです。

自分の観念と間違っていると、他人が正しい行動をしていても愚痴を言いたくなります。
例えば上司にものすごい見幕で叱られた場合、

「そんな言い方をしなくても・・・」

と、機嫌を損ねることがあると思います。
誰でも叱られるのは嫌なので、気持ちはわかるのですが、いつまでも「言い方」のせいにしていると、なぜそんな言い方をされてまで叱られたのか、本質が理解できません。

「怒らずに丁寧な言い方を心掛けるべきだ」

という観念が先立ってしまい、自分の行動やクセに問題があったから言われたにもかかわらず、それを放置してしまうのです。
でも、直すべきところを直さないと、今後自分を苦しめますよね^^;

行動に移さないのも愚痴

愚痴を言う人は、うまくいかない理由を挙げることが得意です。
うまくいきたいのなら、問題点を改善して次につなげることが必要ですよね。

でも、人間の中には変化を嫌う心があります。

なぜなら、今まで体験したことが安全なやり方であって、同じ体験をすればそれ以下になることがないと信じているからです。
人は、高いレベルに登れないことよりも、レベルが下がることを恐れるんです。

新しいことに挑戦すると、成功するか、失敗するかわかりません。
ものすごいエネルギーも必要です。
それがよいかどうかの確証はないので、前に進むのは怖いですよね^^;

しかし、そこで環境の変化が迫られると、できない理由を探してしまう・・・
愚痴ばかりの人は、悪い点を見つけることは得意なのです。

しかしそれを放置したままにすると、次も失敗することは目に見えています。

なのに「他人のせい」「社会のせい」ばかりにして、自分は動こうとしない。
これが「愚痴」は「愚か」だという所以です。

前に進まないのは、現状にしばりつけ、進歩を拒む行為。
愚痴を口に出さなくても、そのような行為も愚痴の一つの姿なのです。

煩悩を焼き尽くす不動明王

このように、「貪・瞋・痴」は、持ち続けると真実を見誤り、自分で自分の首を絞める結果を招いてしまいます。

そのような状態から救ってくれるのがお不動さんなのです^^

お不動さんの持つ剣は三毒の煩悩を一刀両断にする智慧の剣。
そして、背後にゴーゴーと燃え盛る「迦楼羅炎(かるらえん)」で煩悩を焼き尽くしてくれるのです。

「許せない怒り」「忘れられない悲しみ」などは、お不動さんに預けてしまいましょう^^

ただし、なんでもかんでもお不動さんに任せておけば何とかしてくれるものではありません。

お不動さんが厳しい顔をしている理由、それは、自分自身で煩悩と立ち向かえるようにしてあげたいという父性いっぱいの愛情なのです。

不動明王

お不動さんに祈れば、どんなに厳しい状況でも後ろから見守ってくれるといいます。
そう思えば、歪んだものの見方をし始めたらハッと我に返りますし、心強いですね^^