日本最古の巡礼といわれる「西国三十三所観音巡礼」を広めるのに貢献した人は二人います。
一人は、奈良時代の長谷寺の住職、徳道上人。
西国三十三所巡礼を最初に始めた人です。
※ 徳道上人や、西国三十三所観音巡礼の始まりについてはこちらに書きました。⇒西国三十三所巡礼のふるさと 法起院
そしてもう一人、西国巡礼の中興の祖と言われているのが、平安時代中期の
今でこそ西国三十三所に指定されている札所は有名寺院ばかりですが、徳道上人が巡礼を勧めていたころはあまりにもマイナーでした。
徳道上人が始めてから270年後、廃れかけていた西国巡礼を復活・整備したのが花山天皇なのです。
花山天皇が巡礼を再興させる前は、どこが札所なのかも、はっきりしていなかったんですよね。
そんな花山法皇が隠棲生活を送ったのが兵庫県三田市
花山院菩提寺の建つのは標高418mの阿弥陀峰の山頂。
約1キロの急勾配な参道を登る必要があるのですが、山を登ると山門前に駐車場があるので、車で訪れる場合はそんなに大変ではありません。
時々、車がひっくり返りそうなくらい急なところもありますので、歩いて登る方は大変でしょうね^^;
バスの場合、バス停は麓にありますので、麓から8丁目まで約30分、厳しい登り道になります。
花山天皇ってどんな人?
花山天皇は、元々信仰心が強くて西国巡礼を復活させたような人ではありません。
藤原氏の権力争いに翻弄されて、若くして仏門に入らされた悲劇の天皇です。
花山天皇は、968年(康保5年/安和元年)に、第63代 冷泉天皇と、藤原懐子(太政大臣・藤原伊尹の娘)のもとに生まれ、叔父であった円融天皇の即位と同時に、わずか2歳にして皇太子となります。
そして永観二年(984年)、17歳のときに円融天皇の譲位を受け、第65代 花山天皇となりました。
しかし、藤原兼家(藤原道長の父)の謀略によって出家、わずか2年足らずで退位させられてしまうのです。
この事件を「寛和の変」というのですが、それは、花山天皇が寵愛した女御、
悲しみにくれる天皇に、供養のために出家を誘ったのが藤原兼家・道兼親子。
道兼は、「私も一緒に出家してお仕えします」と誘い、京都・山科にある元慶寺まで連れて行ったのですが、天皇の落髪の儀が終わると道兼は帰ってしまうのです。
このように藤原兼家・道兼親子が天皇を外に連れ出して出家に追い込み、その間に皇太子を即位させ、花山天皇は退位に追い込まれたわけです。
この時天皇になった一条天皇は、わずか7歳。
兼家の外孫にあたりますから、政治的な陰謀だったんですね。
こうして花山天皇は、兵庫県姫路市にある書写山圓教寺で仏教の教えを受け、比叡山延暦寺の戒壇院で灌頂を受けて法皇になり、熊野に行ったりして仏道修行に励みます。
伝承では、熊野にある青岸渡寺で修業中、枕元に熊野大権現が現れたのだとか。
そして、「徳道上人の定めた観音霊場を復活させよ」とのお告げを受けたのです。
徳道上人は、観音霊場三十三ヶ所の宝印を納めたと言われる中山寺でその宝印を見つけ出し、徳道上人の伝承をもとに西国巡礼を始めたのです。
こうして始めた巡礼の途中で訪れたのがこのお寺。
現在は花山院菩提寺と呼ばれていますが、当時は紫雲山 観音寺という名前でした。
このお寺は、元々は、インドからの渡来僧、法道上人が薬師如来を祀ったのが寺の始まり(651年)と伝わっています。
その後、弘法大師 空海が修行をしたこともあって、真言宗のお寺となっています。
播州平野から明石海峡を一望でき、眼前に有馬富士を望むことができるこの地に惹かれ、巡礼が終わったらこの地で余生を送りながら仏道修行をすることを決意します。
そしてここで14年間くらし、41歳の若さで亡くなります。
そのようなゆかりがあって、法皇の御廟所もあるので「花山院菩提寺」となったそうです。
地名「尼寺」の由来となった女性達を祀る、十二妃の墓
山に登る前に訪れておきたいところがあります。
それが麓の「尼寺」の集落にある花山院・十二妃の墓です。
県道49号線を花山院菩提寺に向かって北上する途中、カーブになっているところにある看板が目印です。
看板には駐車場があると書かれていますが、おそらく尼寺公会堂がその駐車場だと思われます。
そこに車を停めたら、やや小高いところに十二妃の墓があります。
このお墓は、法皇が寵愛していた弘徽殿女御「藤原忯子」と、花山天皇時代に都で目をかけてもらっていた11人の女官たちの墓です。
花山法皇がこの山におられると聞いた女官たちは、法皇を慕って弘徽殿女御の遺骨を奉じ、11人で京の都から訪ねてきたんですね。
そして山を登ろうとしたところ、中腹まできて女人禁制であることを知りました。
仕方なく麓まで引き返したのですが、いつか花山法皇が山を降りてこられたらお会いできると思い、女性達は麓の村に草庵を建て、尼僧となってこの地に住むことにしたのです。
しかしなかなかその時は訪れず、ある時女性達は、法皇が好んでいた琴を弾いて京都で仕えていた思い出にふけっていました。
その琴の音が法皇の耳にも届き、なつかしくなって山を降りてみると、かつて仕えていた女性達が尼僧となっていたので、大変喜んだのだそうです。
女性達は、法皇が亡くなった後もここに住み続けたそうで、この集落の地名にもなっている「
そしてこちらが十二妃の墓。
中央に建っている五輪塔が弘徽殿女御の墓で、それを11人の女官の墓が、肩を寄せ合うようにひっそりと囲んでいます。
尼寺の集落は静かな集落で、そういう中に建つこの質素なお墓はさびしい感じがします。
そして花山法皇が亡くなって千年以上経つ現在も、この12のお墓は花山院菩提寺の方向を正面にして建っているんです。
それがまた、悲劇の法皇を慕い続けた女官たちのせつない気持ちを表しているように見えますね。
掃除が行き届いた綺麗な境内
女官たちが琴を弾いたことから名付けられたという「琴弾坂」。
1キロほど続く急坂を登ると、山門が見えてきます。
私は車で登ってきましたが、歩いて来られる方はこの門が見えたらホッとするでしょうね^^
門は三間一戸の八脚門になっていて、仁王さんが立っています。
いつの時代の作かはわかりませんが、阿形と吽形で作風が違って、吽形の方は荒彫り感があるんですよね。
その感じが逆に活力みなぎっているように感じます^^
足元はまるで進撃の巨人みたいですね^^
境内は綺麗に掃き清められていて、薬師堂と花山法皇殿の二つの本堂が並んで建っています。
西国三十三所観音巡礼の本堂は、花山法皇殿。
扉の上には花山法皇が詠んだ御詠歌がかかっています。
「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風」
と書かれています。
山の上から見た景色を称えているのでしょうね^^
法皇殿の中央には花山法皇が帰依していた十一面観音、そして右に花山法皇、左に弘法大師の像が祀られています。
ただ、お堂は格子のガラス扉で閉ざされていて、光の反射で中が覗きにくく、さらに尊像は厨子に入っていますので、その隙間からなんとか拝観できる感じです。
眼鏡を駆使してなんとかそれぞれの像のお顔を拝観することができました^^
しっかり握って願いを叶える「幸せの七地蔵尊」
薬師堂の隣には、「幸せの七地蔵尊」というお地蔵さんが立っています。
普通はどのお地蔵さんを見ても同じように見えてしまうものですが、ここのお地蔵さんはそれぞれの役割を象徴する持物を左手に持っています。
そして、右手を差し出して握手ができるようになっています。
下は賢者地蔵さんは、神仏の摂理を文字にした「経文」を手にしています。
同じものを持っているお地蔵さんはいません。
参拝者は、該当するお地蔵さんの右手を握手して、願い事を頼めるようになっています。
両手で握手するのだそうです。
それぞれのお地蔵さんの名前と持っている持物、授けてくれる御利益はこんな感じです。
- 祖父地蔵(軍配):軍師が兵に指図をするために使うもの。つまりは知恵を持った司令塔です。このお地蔵さんに願えば、人生経験をもって得た心の智慧を、臨機応変に授けられる人間になり、家族からも信頼され、生き甲斐のある人生を送れます。
- 祖母地蔵(ほうき):ほうきは愚痴などの心のゴミを掃除して、綺麗な心を保てる証。このお地蔵さんに願えば、いつも綺麗な心で生きられるように、子供夫婦や孫達に知恵を授けられる人として大切にされ、いつまでも生き甲斐のある人生を送れます。
- 父(夫)地蔵(天球):天球はすべての立場を支える立場の人を現します。家庭・社会を担う大きな心を持って、父・夫として迷うことなく人生を歩むことができます。
- 母(妻)地蔵(蓮華):蓮は泥沼にあっても綺麗な花を咲かせます。蓮の花のように、どのような環境や立場になっても母・妻・嫁、それぞれの立場で自分らしい人生を歩めます。
- 子供地蔵(系図):系図は、人は遙か悠久の昔に神仏から生まれて今日に至っている事を現します。人として天から頂いたこの命を大切にして幸せな人生を歩むことができます。
- 結び地蔵(紐):紐は繋がりの証。進学・就職・縁談・子宝など、望む縁を結び、人生の目的を果たします。
- 賢者地蔵(経文):経文は神仏の摂理を文字にした智慧の証。望む人生を歩むための智慧を授けてくれます。
頼もしいお地蔵さんばかり^^
こういう風に、立場別に分かれているお地蔵さんは珍しいですね。
それぞれのお地蔵さんのパワーが頂けるという、御守護札も寺務所で販売されていました。
一段高い場所にある花山院の御廟所
2つの本堂のある境内は、ちょっとした広場になっていますが、1ヶ所だけ一段高くなった場所があります。
階段を登ってみると、花山院の御廟所(お墓)になっていました。
玉垣に囲まれて、宝篋印塔が立っています。
あたりは山の上の静かな空気が流れていますので、ここに立つと、花山法皇の悲運、西国巡礼を復興させた功績など、色々思いを馳せてしまいますね。
有馬富士から播州平野まで見下ろせる、花山法皇が惹かれた景色
納経所に向かう途中、不動堂のそばに阿弥陀峰から西南方面を見下ろせる展望所があります。
ここの景色こそ、花山院がこの地に隠棲を決めた景色です。
左側にちょっと高めにとがった山が有馬富士、そして播磨平野が広がり、遠くは明石海峡まで一望できます。
この景色、法皇のいた時代とおそらく変わっていないであろうと思うほど、人工的なものがあまり見えない豊かな景色です。
法皇は、この景色を見て都の政争がわずらわしく感じたのでしょう。
そしてここに住めば、都は遠く離れていますから安心ですね^^
花山院菩提寺の御朱印
花山院菩提寺は、西国三十三所巡礼の番街札所と、西国薬師四十九霊場の第二十一番札所になっています。
西国三十三所巡礼の御朱印です。
御朱印の真ん中に押されている蓮華火焔宝珠の印の中には、三つの梵字が書かれています。
これは、花山院菩提寺で祀られている神仏を表しています。
中央上が薬師如来を表す種子で「バイ」、左下が十一面観世音を表す種子「キャ」、右下が三宝荒神を表す種子「ウーン」です。
御朱印を頂く時に説明してくれました。
続いて御詠歌です。
法皇殿に掲げられていた、
「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風」
という歌ですね。
最後に、西国薬師の御朱印です。
ここでは、御朱印を頂く時は、他のお寺とは違っていて、ご本尊の名前を唱えてくれます。
その間、参拝者である私たちは手を合わせて仏様と向き合います。
その際、帽子をかぶっている人は取っておきましょう。
私の前に頂いていた人が、帽子をかぶったまま手を合わせていたことに叱られていました^^;
御朱印を頂く、ということは、御朱印帳にこのお寺の仏様を移していただくということです。
スタンプラリーではありませんので、礼儀を持って手を合わさなければなりません。
私が叱られたわけではありませんが、人が叱られているのを見て、改めて神仏に向き合うということに、身が引き締まる思いがしました^^