西国三十三ケ所観音霊場 第二十一番の名刹、穴太寺。
「あなおうじ」、又は「あのうじ」と読みます。
境内はそれほど広いわけでもなく、知らないと町にある普通のお寺。
でも、「今昔物語」や「扶桑略記」など、古くからの文献に登場するほど、丹波国では屈指の名刹なのです。
本堂には、
- 身代わり観音:身代わりとなって命を救った伝説のある観音
- シャカ涅槃仏:撫でると病を癒すという釈迦仏
- 厨子王丸肌守御本尊:安寿姫と厨子王丸の悲話の伝説に語られる小さな仏像
などが安置されています。
そして、多宝塔を背にする美しい庭園は、観光客の多い京都市内のお寺と違って静かな時を過ごせる穴場スポットです!
今回は、西国三十三所草創1300年を記念して「厨子王丸肌守御本尊」が特別公開されていたので、拝観しに行ってみました。
穴太寺は、江戸時代中・後期に再建された
京都といえば昔の国名は「山城国」ですが、穴太寺のある亀岡は「丹波国」に属していました。
そして戦国時代の丹波国の領主が明智光秀です。
しかし穴太寺は、その明智光秀によって散々なダメージを受けてしまいます。
亀山城築城の用材として、堂宇を壊されて流用されていますし、羽柴秀吉との間に起こった戦火にも巻き込まれてしまうんですね。
そういうさんざんな目にあってお寺は荒廃してしまうのですが、多くの人に信仰されていたことから再興の話が持ち上がり、諸堂は復興されました。
その後、江戸時代の享保十三年にも火災にもあってしまい、現在の堂宇はその後の江戸中・後期によるものとなっています。
入り口となる仁王門は、日光の輪王寺から送られたものなのだとか。
アニメに出てきそうな仁王さんが立っています^^
門をくぐると、目の前はすぐ本堂になっています。
本堂前にはベンチもあって、静かな境内。
仁王門の左側には鎮守堂。
お堂には何も書かれていないのですが、ここはお寺の鎮守の神様、菅原道真公を祀っています。
左はお稲荷さんです。
鎮守堂のそばには多宝塔があります。
内部には釈迦如来、多宝如来が安置されているそうです。
境内には他に念仏堂、地蔵堂、三十三所観音堂などの小さなお堂がありますが、何が祀られているのかもわかりにくく、あまり見ごたえのある建物でもありません^^;
それよりも、本堂をお参りして、方丈や庫裏のある円応院の庭を見に行くのがおススメです。
穴王寺の境内は無料なのですが、本堂、円応院はそれぞれ300円、セットだと500円の拝観料となっています。
穴太寺本堂に祀られる霊験あらたかな仏像
本堂は享保13年(1728年)の火災から7年後の享保20年に再建された、入母屋造、本瓦葺の建物です。
扁額の周りにはたくさんの千社札が貼られています。
再建後も信仰され続けていることがよくわかりますね。
本堂の扉は、鎮守の道真公にちなんだ寺紋「梅鉢紋」の窓になっています。
扉の横には、
「西国三十三所草創1300年記念 特別拝観 安寿姫厨子王丸伝説 厨子王丸肌守御本尊」
と書かれた貼り紙がありました。
本堂にいらっしゃるご本尊は、穴太寺の名前を有名にした霊験あらたかな仏様。
でも、この扉から覗いても、中は暗くてあまり見えないのです。
隣接する円応院に拝観受付がありますので、そちらで拝観料を払って、本堂左側の扉から中に入ることになります。
穴太寺創建に関わる薬師如来
穴太寺は、慶雲二年(705年)、文武天皇勅願で大伴古麿が薬師如来を本尊として安置したことに始まります。
本堂内陣には厨子が3基あって、中央の厨子にいらっしゃるのが、御本尊の薬師如来です。
しかし、残念ながら、扉は固く閉ざされています。
実は御本尊の薬師如来は絶対秘仏!
よくあるパターンだと、33年に一度の御開帳とされる仏像でも、中開帳といって途中で御開帳したり、お寺で何らかの記念年であればそこで特別開帳したりするのも珍しくありません^^;
しかしこちらの薬師如来は、今まで御開帳された記録はない、秘仏中の秘仏なんです。
果たしてどんなお姿なのか、それすらわかっていないそうですので、お寺の人ですら拝見していないのでしょうね。
なので、特別公開は期待できなそうです^^;
ただ、戦乱や火災があったとき、御本尊はどうされていたのか?
わかりませんが、そのあたりも気になりますね。
穴太寺の名を世に知らしめた身代わり観音
内陣の左側の厨子には、聖観音立像が祀られています。
「身代わり観音」として知られ、それ以外にも女人安産の観音様として知られています。
この観音様の厨子の扉は閉ざされていて、33年に一度の御開帳の秘仏。
最近では2010年に公開されました。
普段は見ることができませんので、代わりに右側の厨子に祀られているお前立の聖観音を拝むことになります。
この観音様の「身代わり」の霊験譚が「穴太寺観音縁起」で伝えられていて、「今昔物語」や「扶桑略記」にも同様の話が載っています。
このような内容です。
平安時代の中頃、村上天皇の時代、近くの村に住む宇治宮成という、貪欲で評判のよくない郡司が住んでいました。
しかしその妻は信心が篤く、その妻の勧めもあって、京から仏師・感世を招き、聖観世音菩薩を造立してもらいました。
そのお礼に愛馬を差し出したのですが、宮成は後になってそのことを惜しく思い、峠で感世を待ち伏せて弓矢で殺し、馬を取り戻したのです。
ところが家に帰って観音様を見ると、その胸に先ほど自分が放った矢が刺さり、金色の肌から血が流れだし、目から赤い涙を流していたのです。
聖観音が身代わりとなったことを知った宮成は、自分の非を悔やみ、自らの家を壊して寺を建て、自分も仏門に入って観音様を祀りました。
その後、観音様が夢枕にお立ちになり、
「弓矢の傷が痛むため、穴太寺の薬師如来に癒してもらいたい」
と願うので、像は穴太寺に移され、身代わり観音として信仰されるようになりました。
この話は、仏師の命を救った観音様、というだけでなく、宮成を罪人にするのを防いだという、観音様の慈悲を語った縁起になっています。
かなりの霊験ですが、さらに時宗の祖である一遍上人も、この観音様のお導きによって穴太寺で半月ほど滞在したことが「一遍上人絵伝」に書かれています。
これによってたくさんの人がこの地で上人と結縁したのだそうですよ^^
このように古くから信仰を集めていた観音様なのですが、実は1968年11月に盗難にあっています。
そして残念ながら、それが見つかったとう情報はまだ聞かないんですよね。
現在の像は、昭和の名仏師・佐川定慶作のものなのだそうです。
それでも観音様への信仰は衰えず、私がお寺にいる間も途切れなく観音巡礼の人たちが本堂前でお経をあげていました。
様々な病から救う涅槃釈迦如来
本堂右脇壇には布団をかけられて寝ているいるお釈迦さま、「涅槃釈迦如来」が祀られています。
薬師如来と聖観音は秘仏でしたが、こちらはいつでも拝観可能、しかも撫で仏なので触ることができます!
堂内は撮影禁止なのですが、西国三十三所めぐりのポスター写真で涅槃釈迦如来像が使われていました。
この涅槃釈迦如来は鎌倉時代の作とされているのですが、見つかったのは明治29年(1896年)なんです。
大阪の天満に住む女性が、孫娘の病気平癒のために祈りを続けていたのですが、ある日その女性の夢の中で
「穴太寺の釈迦如来に祈れば、孫娘の病気は快癒する」
という霊夢を受けました。
そこで、皆で寺中を探すと、本堂の天井裏から見つかったのだそうです。
その像を道内にお祀りして祈ると、難病とされていた孫娘の病気が治ったことから、諸病悉除の大涅槃像と崇められるようになり、多くの人々の信仰を集めるようになりました。
今でも自分の病気と同じ尊像の部分を撫でて、自分の体をさすり返すと、病気が治ると信じられています。
お寺の方にも、
「布団をめくっても良いですので、どうぞ撫でて下さい」
と言われましたので、布団をめくってみると色々なところが光沢を放っていて、たくさん撫でられていることがよくわかりました。
私も最近調子の悪いところは全部撫でさせてもらいました^^
安寿姫・厨子王丸伝説に基づく「厨子王丸肌守御本尊」
説経節の「五説経」中の演目「さんせう大夫」。
この中に、悲劇の運命にもて遊ばれる安寿姫と厨子王丸の姉弟が登場するのですが、その安寿姫が厨子王丸に託した守り仏、観音小像がこのお寺に伝わっています。
こちらも通常は公開されていない秘仏なのですが、今回は特別公開で拝観することができました。
「さんせう大夫」の話を超要約すると、このような内容になっています。
陸奥国の太守、岩城判官正氏の子供として生まれたのが、安寿姫と厨子王丸の姉弟。
ある時父である正氏が、讒言(虚偽のでっちあげのこと)によって筑紫国へ左遷させられました。
妻と安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行こうと筑紫国へ向かうのですが、その途中の越後国で人買いの山岡太夫に騙され、妻は佐渡に、姉弟は丹後国の長者である山椒太夫に売り飛ばされてしまいます。
姉弟は山椒太夫の下で奴隷として酷使されるのですが、ある日安寿姫は、厨子王だけでも逃がそうとするものの失敗。
罰として額に焼け火箸を当てられるのですが、肌守りの仏さまが身代わりとなって痕がつきませんでした。
その後も姉弟は逃亡を図り、ついに安寿姫は再開を約束して、肌守り仏を弟に託し、京の都に逃がすことに成功しました。
しかし安寿姫はその後、近くの沼に身を投げて亡くなってしまうのです。
一方、厨子王丸は追手に追われながらも国分寺に逃げ込み、聖人に匿ってもらいます。
聖人は厨子王丸を皮籠に隠したのですが、追手が皮籠の中を怪しんで探ろうとします。
しかし、中に入っていたのは金色に輝く地蔵菩薩。
なんとか難を逃れることに成功しました。
そんなこともありながら、厨子王丸は京の都にたどり着き、厨子王丸は父の無実の罪をきせられた経緯を朝廷に説明し、判官正氏の罪が赦された上に旧国を与えられました。
出世した厨子王丸は、丹後国にも領地を得る機会があり、仇討ちにも成功します。
かなり端折った概要ですが、このような内容です^^;
実際の話では、安寿姫が拷問されたり、山椒大夫が処刑されるシーンはなかなか残酷な場面があります。
この話を基に、森鴎外が「山椒太夫」という小説を書いていますが、こちらは残虐シーンがほとんどなくなり、ライトにされています。
脚色はありますが、こちらでストーリーをつかんでも良いかもしれません。
また、このような絵本も出ています。
仏像については、5センチに満たない小像で、今回の特別拝観では、内陣の中央で小さな厨子が開かれて公開されていました。
金色に光ってはいるのですが、何より小さいので近くに寄ってもなかなか見えにくい仏像でした^^;
肌守というように、持ち歩きを想定したポータブル仏ですので、それは仕方のないことですね。
仏さまの形よりも、厨子王丸が持っていたかもしれない、ということに存在の重みがあります。
その像がなぜ穴太寺にあるのか?
穴太寺が、京に向かう厨子王丸を匿ったので、後でそのお礼に奉納したという話もありますが、詳しくはわかっていません。
身代わり観音や涅槃釈迦如来もそうですが、穴太寺は人の苦しみを代わりとなって受け止めてくれる仏さまが多くいらっしゃるお寺ですね^^
多宝塔が借景に!江戸時代を代表する名庭園
本堂の隣には、穴太寺の方丈と庫裏を兼ねた円応院があります。
こちらから本堂に渡り廊下が伸びていますので、本堂の拝観もこちらが受付になっています。
庭園はそれほど広くありませんが、京都府指定文化財名勝になっている江戸中期の庭園です。
まずは西側の露地庭。
茶室があって、北摂の山並みを借景にしています。
こちらも良いのですが、やはり注目は南側の池泉築山式の庭園です。
建物の内側から見ると、額縁で切り取ったようにも見えます。
つい座ってみたくなる風景ですね。
庭もきれいに整えられています。
枯山水の庭も良いのですが、やっぱり実際に水を引いている庭の方が気持ち良いですね^^
反対側は多宝塔が見える景色。
自然の風景を借景にする庭はよくありますが、塔を借景にしている庭はそうありません。
しかも穴太寺の多宝塔はすぐそこにありますから、ものすごい近いです^^
塔というのはお寺の建築の中でも一番見応えのある建物だと思うのですが、落ち着いた庭園と一緒に眺められるのは贅沢ですね。
周りは静かで庭を拝観する人はまばらでしたので、ゆっくり座って景色を堪能することができました。
穴太寺の御朱印
穴太寺の御朱印は、
- 西国三十三所 第二十一番 観世音菩薩
- 涅槃釈迦如来
- 薬師如来
の御朱印があります。
西国三十三所 第二十一番 観世音菩薩の御朱印です。
西国三十三所の御詠歌です。
「かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声」
と書かれています。
これは
「このような時代(末法の世)に生まれてしまったと憂い思い悩んでばかりいないで、私たちの声(世の中の苦しみ)を観て聞いて下さる観音様のお名前をお称えして、その大慈大悲の御心に頼みましょう。」
という意味です。
ちなみに真ん中の印は、西国三十三所 草創1300年を記念して押してもらった期間限定の印です。
江戸時代に使われた札所御宝印の復刻版なのだそうです。
通常なら観世音菩薩の御朱印と同じ梵字の印が押されるのですが、希望すれば押してもらえました。
涅槃釈迦如来の御朱印です。
穴太寺の御本尊、薬師如来の御朱印です。
いずれも素晴らしい御朱印ですが、受付には2人の女性がいらっしゃって、どちらも丁寧な対応をしてくれました。
人柄が現れているのかもしれませんね^^
穴太寺は境内は広くありませんので、サッと見るだけならそれほど時間はかかりません。
なのでせっかくなら円応院の庭でゆっくりするのがおススメですね。
穴太寺の駐車場は、仁王門のすぐ南側にあります。
料金は500円です。