高台寺の「ねねの道」から丸山公園方面へ向かう途中に見えてくるこの建物。
異彩を放ち、ひと際目立つ独特な塔ですが、道を歩いていると「あれ、何?」と気になっている人を何度か見かけたことがあります。
これは、国の登録有形文化財に指定されている「祇園閣」という建物です。
祇園祭の鉾にそっくりですよね^^
屋根や手すりが青銅製で、金閣も銀閣に対して別名「銅閣」とも呼ばれているんです。
祇園閣は「大雲院」というお寺の境内にあって、普段は一般公開されていないのです。
「京の夏の旅」キャンペーンなどで特別公開されることはあるのですが、毎年公開されるわけでもなく、まったく公開されない年も珍しくありません。
なので、京都の人でも知らない人は多いんです。
今年はそのチャンスに巡り合えたので、行ってみました!
大雲院と祇園閣は歴史的な関連性はなかった!?
祇園閣は大雲院の境内にあるのですが、実は大雲院と直接関係のあるものではありません。
昭和48年に大雲院が移転してきたのです^^
大雲院が八坂神社と何か関係があって、そういう建物を持っているのかと思っていたのですが、全く関係なかったんですね~。
祇園閣について
祇園閣は、大雲院の本堂のすぐ裏にあります。
元々この地は、明治・大正期の実業家で大倉喜八郎の別荘「真葛荘」でした。
大倉喜八郎は、帝国ホテル、ホテルオークラ、サッポロビール、大成建設などにつながる大倉財閥の創始者です。
祇園閣はその別邸に建つ一つの建物だったのです。
鉄筋コンクリート造の三階建てで、高さ36メートル。
なぜこのような建物を建てたのか?
年に1度しか見られない祇園祭の鉾を一年中見れるように
ともいわれていますし、
「金閣」や「銀閣」があるのだから「銅閣」も
という理由だったともいわれています。
実際はどうだったのか、わかりません^^;
正面の扉は青銅製、屋根は銅板葺きで、耐久性を高めるために緑青で覆われています。
そういうわけで、「銅閣」と呼ばれているのでしょうね。
屋根にある鉾先には金鶴。
祇園祭の山鉾の鉾先には、長刀鉾なら「大長刀」、月鉾なら「月」と、それぞれ独自のものをつけているのですが、祇園閣ではそれが鶴になっています。
これは、喜八郎の幼名が鶴吉だったことから、鶴を置くことで自分自身を表したといわれています。
この金鶴は高いところにあるのでわかりにくいのですが、大きさは人の背丈ほどあるそうです。
そして、金箔を5回も押して作ったという、豪華な鶴なんです。
やはり自分を表すものということもあれば、豪華に作りたいと考えたのかもしれません^^
入り口の扉にも鶴の絵が施されています。
残念ながら、ここから先は撮影禁止。
内部だけでなく、上に登って見渡せる景色も含めて禁止になっています。
なのでここからは文章で紹介します。
祇園閣の入り口には阿弥陀如来を安置、すぐ横には上に登る階段があります。
内部の壁や天井には、中国の敦煌にある莫高窟の壁画の模写があり、それが三階に上るまでギッシリ描かれています。
中の照明は、鬼をモチーフにした装飾が電球を抱え持っていて、独特の世界観が広がっていました。
最上階につくと、360度見渡せる景色!
北側に比叡山や愛宕山、南側に八坂の塔や高台寺、東側に大谷祖廟の墓、西側に京都タワーなど京都市内を見下ろせるようになっています。
私が訪れたのは祇園祭の宵々山の日でしたので、祇園閣から本物の祇園祭の賑わいが見れないかな~と、洛中洛外図屏風のように見渡すことも少し期待したのですが、予想通り周りの建物で見ることはできませんでした^^;
北側に八坂神社の本殿の屋根なども見えるのですが、神輿が置かれている舞殿さすがに見えません^^;
でも、南側の八坂の塔は最上階と目線が一致しますし、その高さから見る機会はなかなかありませんので、なかなか貴重です。
そして大谷祖廟側に立つと、風がなかなか気持ちいい♪
360度回って景色を楽しめるのも楼閣ならではの楽しみ方でした。
あと、景色でつい忘れてしまいがちですが、最上階には天井には十二支が彫られ、13体の運中供養菩薩がいらっしゃいます。
なかなか見ごたえありますよ^^
大雲院について
大雲院は、本能寺の変から5年後の1587年、正親町天皇のご厚意で、織田信長・信忠親子の菩提を弔うために、貞安上人に御池御所を与え、開山させたお寺です。
御池御所は現在の烏丸二条南、漫画ミュージアムのあるあたりです。
始まりはその地だったんですね。
その時すでに信長は、秀吉によって大徳寺総見院で弔われていたので、こちらは信忠がメインになります。
「大雲院」という寺名も、信忠の法名「大雲院殿三品羽林仙厳大居士に因んでいます。
その後、1590年に秀吉によって寺町四条に境内が移され、それから300年以上、そこで伽藍を構えていました。
しかしその周辺は戦後、繁華街の中心として発展、時の住職は静かな場所で宗教活動がしたいと悩んでいたんですね。
一方、「真葛荘」は、戦後に財閥が解体されてからは高島屋所有となり、高島屋では接待などに使っていたそうです。
そこで、大雲院と店舗を増床してビジネスに繋げたい高島屋とで、、金融機関を介して土地の等価交換が行われることになりました。
そして昭和48年(1973)年4月に今の本堂が出来上がって今の形となります。
現在の本堂は、寺町四条にあったころの、開山堂と御影堂を合体した形になっているそうです。
この移転とともに祇園閣「銅閣」は、大雲院の所有となり、まさに「銅閣寺」と呼べるようになったわけですね^^
祇園閣内部の壁画はいつ描かれた?
祇園閣の内部には、阿弥陀如来や壁画がありますが、大倉喜八郎のいた当時は何もありませんでした。
入り口の阿弥陀如来は大雲院が移ってきてから祀られたものですし、祇園閣の内部の壁画は、昭和62年に開祖400年を迎えた記念に描かれたものです。
私はてっきり、大倉喜八郎は阿弥陀如来を信仰していて祀られたのかと思っていました。
なぜなら、ここから最上階へ登れば、西に沈む夕日を見ながら、はるか西にあるという極楽浄土に思いを馳せる「日想観」ができるからです。
永観堂や清水寺など、東山にあるお寺では日想観ができるような土地柄で、実際にそのような信仰も行われてきたんですね。
でも、大倉喜八郎とそれとは関係ないようです(≧▽≦)
織田信長・信忠親子の碑と石川五右衛門の墓
大雲院の境内にある墓地には、織田信長親子の碑と石川五右衛門の墓があります。
特別公開の時には特に案内はされないので、事前に知っていなかったら見過ごしてしまうところでした。
ただ、案内はされないのですが、墓地まで行くと案内板はあったのですぐわかりました^^
こちらが織田信長・信忠親子の碑。
碑には信長と信忠の法名が書かれています。
先ほど説明した通り、「大雲院殿・・・」というのが信忠の法名です。
信長は大徳寺総見院に弔われたので、「総見院殿・・・」と書かれています。
横の石碑には、石碑の建立の歴史が書かれています。
それによると、天正年間に寄進によって建立され、昭和54年に四条寺町の墓地から現在の墓地に移転したと書かれています。
そしてなぜかここにある石川五右衛門の墓。
こちらも四条寺町から移転したもの。
石川五右衛門は天下の大泥棒で、最後は市中引き回しの刑にあったのですが、その際、大雲院の門前で開山の貞安上人が引導を渡したことから、その縁で大雲院に墓があるようです。
御朱印
大雲院の御朱印です。
こちらは手書きで頂いたものですが、置き紙タイプのものは見開きで祇園閣の絵が描かれているものとなっていました。
祇園閣は、毎年3月に開催される東山花灯路では祇園閣もライトアップされて、ひと際目立ちます。
清水寺や八坂の塔のライトアップはきれいですが、祇園閣も負けていません。
東山花灯路の際はぜひ足を運んでみてください^^