平安時代中期、藤原為光が息女と夫人の菩提を弔うために建てたこのお寺は、平安末期に後白河法皇が院御所、「法住寺殿」を造営して栄えました。
後白河法皇は源平騒乱の頃の天皇で、藤原摂関家、源氏、平氏を上手に手玉にとり、非常に強い影響力を持っていました。
源頼朝にも「日本一の大天狗」とよばれたほどの天皇です。
頼朝は、平氏を倒した後でも後白河法皇が生きている間は征夷大将軍の位を貰えなかったそうですからね^^;
法住寺は今でこそ小さなお寺ですが、後白河法皇が力を振るっていた当時は院政を行う場所であり、宗教施設であり、後白河法皇の住まいでもあり、というような大きなお寺。
蓮華王院もそもそも、後白河法皇が平清盛に銘じて建立させたもので、法住寺の一画にすぎなかったんです。
でも今では蓮華王院の方が、豪華絢爛な千体千手観音立像が安置されていることから有名になっていますね^^;
法住寺は蓮華王院本堂の正面にあたる東大門の前にあります。
(拝観入口は正面ではありません)
今は東大門からは入れないようになっていますが、この門から入れたとすると、千体千手観音立像の真ん中にいる大きなご本尊、3.4メートルの千手観音坐像の前に出ます。
つまり、法住寺の位置は、千手観音を拝むのに最もふさわしい場所だったということになります。
蓮華王院が建立された時、千体観音像を前に喜んでいる様子がわかるような気がしますね^^
東大門は閉まっているため、同じように拝むことはできませんが、ぜひ三十三間堂とセットで訪れてみてほしいお寺だなあと思います。
法住寺で祀られる霊験あらたかな仏像
法住寺には、霊験あらたかな伝承を持つ仏像がいくつか祀られています。
見た目こそ派手ではありませんが、なかなか面白い言い伝えです^^
本尊、身代わり不動尊
入口を入ってすぐのところにある本堂。
ここには慈覚大師 円仁作といわれるご本尊、不動明王が祀られています。
通称、身代わり不動と呼ばれているこのご本尊には、こんな伝承があります。
寿永2年(1184年)、「法住寺合戦」という、木曽義仲による軍事クーデターが起こりました。
法住寺殿は攻め入られ、南殿には火をかけられてしまい、後白河法皇にも矢が飛んできます。
命を落としかねない状況ですが、この時、法皇の身代わりとなって当時の天台座主・明雲大僧正が敵の矢に倒れてしまいました。
しかし、大僧正のおかげで法皇は難を逃れることができた、ということから「身代わり不動尊」と呼ばれるようになりました。
法住寺の身代わり不動尊は、背後の炎(
法住寺の本堂は誰でも自由にお参りすることができますが、ご本尊は本堂の奥(内陣)に安置されています。
しかも内陣から格子で区切られているんです。
靴を脱いで本堂に上がって、格子の前まで行くことはできますが、それでも内陣の方が暗いため、肉眼でお姿を拝観するのはなかなか難しいです。
でも、毎月28日は不動明王のご縁日には格子が上がるそうで、少しだけ見やすくなるかもしれません^^
忠臣蔵、赤穂浪士の小木像
本堂を上がって阿弥陀堂に向かう途中には、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の四十七士像が安置されています。
赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩を中心に、大石内蔵助など四十七士がひな壇で名前入りで祀られています。
こちらは上で紹介した身代わり不動尊と違って、間近で明るいところで拝観できますよ^^
ところでなぜ赤穂浪士が法住寺に祀られているのでしょう?
それは、吉良邸討ち入り前の大石内蔵助が、法住寺で身代わり不動尊に仇討ちを祈願していたことから縁があるのだそうです。
元禄赤穂事件で赤穂藩の領地が没収され、赤穂を離れることになった大石内蔵助は、家族とともに京都の山科に隠棲していました。
その時に法住寺で吉良上野介への仇討祈願をしていたんでしょうね。
その後、吉良邸に押し入った赤穂浪士達は、味方の死者を出さずに仇討に成功しています。
祈願していたのはあの「身代わり不動尊」ですから、お不動さんが身代わりとなって死者がゼロで済んだのかもしれませんね^^
法住寺ではそのような縁もあって、赤穂浪士達の義士の遺徳を伝えるためにこれらの木像を安置しているのだそうです。
毎年12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」が開催されます。
忠臣蔵ファンは見逃せないですね^^
三十三間堂七不思議の一つ「親鸞のそば食い木像」
本堂に向かって左側には阿弥陀堂があります。
外からの入口がありますが、扉は常に閉まっていてここからは入れません。
本堂に上がって、廊下から行けるようになっています。
ここには、浄土真宗を開いた親鸞聖人の作とされる阿弥陀如来像が安置されているのですが、その脇にもう1つ親鸞のそば食い木像という像が安置されています。
この像にはこのような伝説があります。
身代わりとして自分の姿の坐像を彫って置いていたのですが、他の弟子たちには夜中に出ているのがバレていて、
「都にいる女の所へ通っているに違いない」
とうわさをたて始めました。
やがて師匠の耳にも届き、師匠はある晩突然弟子たちを集めて点呼をとったところ、「範宴」と呼ぶと、「ハイ」という返事が返ってきました。
返事が返ってきたことから「範宴は下山などしていない」と思い、安心して一同にそばを振舞ってその場は終わったのです。
そのようなことがあったことを知らない範宴が朝戻ってきたのですが、話を聞いて首をかしげていると、坐像の口にそばがついているのを発見したのだそうです。
つまりこの像が、範宴がいるかのごとく、師匠のそばの振る舞いを受け、食べ終えたというわけです。
それからその坐像は「親鸞のそば食い木像」と呼ばれるようになったのだそうです。
阿弥陀堂を拝観するには、予約して拝観する必要があります。
拝観料は500円です。
もしくは、毎年5月1日~7日なら予約なしで入ることができます。
内陣に上がって参拝する内陣参拝(800円)というのもあります。
⇒法住寺の後白河法皇御木像を拝観しに行きました。
ポストカードの写真も載せているので、どのようなお姿なのか見たい方はリンク先の記事を合わせてご覧ください。
毎年ゴールデンウィーク期間のみ公開される後白河法皇御木像
5月3日は、後白河法皇の命日。
法住寺ではその日に法要があり、その前後の5月1日~7日に、後白河法皇御木像(御前立像)を公開します。
(公開する後白河法皇御木像は阿弥陀堂で安置されているので、阿弥陀堂の拝観料が必要です。)
下は、法住寺前で特別開扉の案内板に載っていた後白河法皇御木像の写真です。
ただし、公開されるこの像は、平成3年に本物の像を模刻して作った、いわゆるレプリカのこと。
本物は鎌倉仏師 運慶作のもので国宝にも指定されており、法住寺陵法華堂に安置されています。
江戸時代末期頃までは5月3日の命日に開扉されていたようですが、明治以降、宮内庁管理になってからは今日まで開扉されたことがないそうです。
なので本物の方は残念ながら見るチャンスはないでしょうね^^;
でもこの像は、後白河法皇の面影をそのまま残しているのかもしれません。
というのも、運慶は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍していましたし、後白河法皇もその時代の人。
運慶が後白河法皇と対面しているのなら、本物の像はそっくりに作っているでしょう。
そして、公開される像はそれを模刻したものなので、後白河法皇は実際にこのようなお姿、お顔立ちをしていたのかもしれませんね^^
法住寺の裏には、後白河法皇の天皇陵もあります
天皇陵に行くには一旦境内を出て、山門のすぐ隣に入口がありますのでそこから行きます。
ただし、天皇陵をお参りできるのは平日だけです。
天皇陵は昔は法住寺が管理していましたが、現在は宮内庁の管轄で、土日祝日は門が閉められてしまうんです^^;
私が行った時はたまたま平日だったので行くことができました^^
陵への入口に入っていくと、こんな感じで綺麗にされた場所になっています。
さらに奥まで行くと、天皇の御墓になっている法華堂があります。
ここから先は入れません^^;
ここで後白河法皇に思いを馳せましょう。
法住寺の御朱印
法住寺には御朱印が3種類あります。
- 本堂:身代わり不動の御朱印
- 阿弥陀堂:親鸞聖人そば喰い像の御朱印
- 忠臣蔵の御朱印
です。
今回は阿弥陀堂は参拝していないので、不動明王の御朱印だけ頂きました^^
法住寺にはオリジナルの御朱印帳もあります。
今、大河ドラマ「平清盛」のでも使われている「今様」のうたが表紙に書かれています!
「あそびを せんとや うまれけむ」
というやつですね^^
写真では見えにくいですが、一番左側に書かれている三行がこの言葉です。
後白河院は本当にこの歌が好きだったようで、
ただし、ドラマで歌われている曲は作曲家が作成した曲で、残っているのは歌詞だけなんです。
本当はどんな風に歌われていたのかはわかりません^^;
特別拝観の時には、住職が独自に曲を考えて披露してくれるようですので、聞いてみたいですね。