ご本尊の薬師如来がガン封じの仏様として信仰されている平等寺。
地元では「因幡薬師」「因幡堂」と親しまれていて、狂言演目「因幡堂」「鬼瓦」の舞台にもなっています。
京都の繁華街、四条から少し下ったところにあって、境内は狭く、雰囲気は地域で信仰されている庶民のお寺という印象。
でも創建は長保5年(1003年)と、一千年の歴史のある古刹なのです。
そしてこの因幡薬師、日本三如来の1つに数えられているんです。
しかしご本尊は秘仏。
普段は外から拝むのみで、拝観することはできません。
しかも、定期的に公開しているわけでもなく、拝観機会がありません。
なかなかチャンスがないのですが、「平成27年度 第51回京都非公開文化財特別公開」で、5年ぶりの公開となったので、拝観しに行ってきました。
平安貴族、橘行平の邸宅を改造して建てられた因幡堂
因幡堂の始まりは平安時代なのですが、その頃は洛中(平安京内)での寺院建立が許されていませんでした。
その理由は、奈良の平城京が都だった頃、南都六宗が勢力を強めて政治に影響力を持ちすぎていたからです。
時の桓武天皇は、宗教勢力がそのように力を持つのを嫌ったため、都を移したんですね。
平安京が造営されたとき、唯一許されたのは、東寺と西寺だけだったのです。
そのような理由から、洛中では「寺」を名乗らず、「堂」と名乗る私的な持仏堂が生まれました。
因幡堂はその1つです(他には六角堂や革堂などがあります)。
因幡堂を建てたのは、平安時代の貴族、
自宅の屋敷を改造して建てたんですね。
「因幡」というと、現在の鳥取県の昔の名前「因幡国」ですが、橘行平は、村上天皇の命で因幡国の国司として現地に遣わされたのです。
因幡堂縁起よると、行平と御本尊薬師如来にはこういう縁があります。
平安時代の貴族、橘行平は天皇の勅命を受け、因幡国司として因幡国に遣わされました。
因幡国での任務を終えて帰路につくのですが、その途中、急に病にかかり、倒れてしまいました。
その時、夢の中で一人の僧が現れます。
僧によると、因幡国
そうすれば、病気は治り、一切の願いが成就するとのことでした。
行平は早速海底を探らせたところ、一つの霊光を放つ浮き木を見つけました。
それを海中から引き揚げると、なんとそれは薬師如来像だったのです。
行平は喜んで尊像をお堂に収めて祈るとたちまち病気は平癒しました。
時は流れ、ある時、京にある行平の屋敷に来客がありました。
行平が、
「どなたですか?」
と尋ねると、
「因幡の僧だ」
と答えるので、門をあけるとそこには因幡で祀った薬師如来像が立っておられたのです。
驚いた行平は屋敷を改造してお堂を作り、「因幡堂」と名付けました。
その時祀られた薬師如来像が、御本尊「因幡薬師」とされています。
因幡堂は、現在に至るまで幾多の火災に見舞われています。
現在のお堂は、明治19年(1886年)に再建されたものです。
しかし、創建当時から千年以上この地に変わらずあり続けています。
日本三如来に数えられる御本尊 薬師如来
今回の特別拝観では、ご本尊の因幡薬師(重文)が御開帳されました。
本堂にどんと構えているのかと思いきや、本堂の横にある収蔵庫で御開帳されていました^^
本物は撮影禁止。
境内には因幡薬師の写真がありましたので、そちらで紹介。
上に頭巾のようなものをかぶっている不思議な仏様ですね^^
因幡薬師は、日本三如来に数えられています。
日本三如来は、
- 京都・因幡堂(平等寺)の薬師如来
- 京都・嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来
- 信州・善光寺の阿弥陀如来
の三尊。
何が三如来なのかというと、共通点は「三国伝来」というところ。
つまり、インドから中国や朝鮮半島を経て、日本へ伝わった、という意味です。
因幡薬師は、祇園精舎でお釈迦さまが自ら作ったものとされ、竜宮を経て日本へ来たとされています。
それが因幡の国で流れていたところ、行平に拾われたのです。
なので、三国伝来の如来様ということになります。
しかし、実際には10世紀~11世紀に流木を利用して作られた、一木造りの仏様と考えられています。
因幡薬師を安置している厨子は江戸時代後期のもので、後ろにはローラーがついていて、火災など緊急時には厨子のローラーを利用して運べるようになっています。
厨子は因幡薬師がなんとか入るくらいギリギリの大きさ。
頭にある頭巾は、信仰上のものではなく、厨子を運ぶ際に頭をぶつけないようにするためのクッションなのだそうです(≧▽≦)
なにか信仰上の理由があるのかもと考えていたので、ちょっと拍子抜けしました^^;
収蔵庫には、1213年に作られたという嵯峨清凉寺式の釈迦如来を模して作られた釈迦如来像(重文)や六本の腕を持つ如意輪観音(重文)も公開されていました。
因幡堂と高倉天皇
高倉天皇は平安末期の天皇です。
平清盛の妻・平時子の異母妹であった、平滋子を母とします。
そしてその中宮(妻)は健礼門院(平清盛の娘、平徳子)です。
つまり、平氏のの親族にがちがちに固められた天皇ですね。
そんな高倉天皇は、因幡堂にすごく縁があるようです。
高倉天皇は、因幡堂のすぐ南「東五条院」にお住まいになられていました。
因幡堂への帰依も篤く、「平等寺」という名前は、承安元年(1171年)に高倉天皇から賜ったものです。
因幡堂の参道は南に延びていますが、その参道は
「あけずのもん」とも言いますが、「あけず」が一般的。
この名前の由来は、南側にある高倉天皇の御所に遠慮して、因幡堂の南門を開けなかったためといわれています(異説あり)。
今となっては、南門しか開いていませんけどね(≧▽≦)
そんな高倉天皇ですが、「平家物語」に
小督局は、高倉天皇に仕えていた女房。
平家物語では、中宮の徳子に仕えていたとされています。
宮廷一の美女で、琴の名手でもあった小督局は、次第に高倉天皇の寵愛を受けるようになりました。
それを知った平清盛は激怒します。
自分の娘である徳子に、天皇の息子を産ませたかったからです。
清盛を恐れた小督局は、御所を離れ、嵯峨野に身を隠しました。
しかしそれを悲しんだ天皇は、家臣に小督局を探させ、なんとか秘密裏に連れ帰りました。
しばらくは人目の付かないところに住んでいたのですが、天皇の娘、範子内親王を産むことになります。
清盛は激怒して子を取り上げ、小督局は清閑寺で出家させられました。
因幡堂には、尼になった小督局が自身の髪の毛を使って織り込んだ「毛髪織込光明真言」、そして小督局愛用の「琴」や「蒔絵硯筥」が伝わっています。
鈴木松年筆の仁王画
現在の本堂は、明治19年に再建されたものですが、本堂の須弥壇の裏側には、明治から大正にかけて活躍した画家、鈴木松年筆の仁王画があります。
実は、ごく最近になって、鈴木松年によるものだとわかったのだそうです。
本物は撮影禁止なので、看板にあった写真で紹介。
口を開けた
須弥壇とご本尊のお厨子の構造上、因幡薬師の出入りは須弥壇裏面からとなりますので、それを守る意味で描かれたと考えられるのです。
しかしこの絵は、須弥壇の裏側にあるため、普段は拝観することができません。
特別公開の時のみの拝観ですね^^
その絵が鈴木松年の筆によるものとわかった経緯ですが、今まではここに仁王画が描かれていることは一応わかっていたのだそうです。
しかし荷物置き場になっていたので、絵の右下にあるサインが荷物で隠れていたんですね^^;
それで誰が描いたのかわからなくなっていたのだとか。
もっと科学的な分析をして作者がわかったのかと思いきや、これまた拍子抜けするような理由ですね^^;
今回の公開後は修理が予定されていて、修理なしの状態で見られるのは今回が最初で最後。
今後は修理したものが特別公開の時に見られるでしょう。
因幡堂の境内
因幡堂の境内は、本堂でほとんどを占めますが、周りには仏様が祀られています。
まずは入り口横にある観音堂。
洛陽三十三所観音霊場 第二十七番に指定されているお堂で、洛陽三十三所参りをしている方はこちらを参拝しておきます。
そして、本堂前にある鬼瓦。
狂言にも使われる因幡堂の鬼瓦ですね^^
鬼の顔が使われていないのに、鬼瓦なんです。
安産祈願のお地蔵さん。
こんな可愛らしい石像もありました。
収蔵庫の前には、
龍が生んだ9頭の神獣のうちに一匹で、亀の姿をしていて重い物を好んで持つとされています。
なので、柱の台座などに使われることが多いのですが、因幡堂では阿形と吽形の贔屓が屋根の上に乗せられているそうです。
残念ながら下からは見えませんが、このような形をしているんでしょうね^^
ご朱印
因幡堂にはご朱印がいくつかあります。
- 洛陽三十三所観音霊場 第二十七番
- 京都十二薬師霊場 第一番
- 京都十三佛霊場 第七番
- 大黒天
そのうち二つ頂いています。
京都十三佛霊場のご朱印です。
洛陽三十三所観音霊場 第二十七番のご朱印です。
因幡堂では、仁王画が描かれたご朱印帳を2,000円で販売していました。
今回の御開帳限定なのだそうです。
因幡堂では、毎月8日に手作り市が開催され、50~60店ほど出店されます。
また、境内の観音堂は同じ日に開帳されますので、興味のある方は訪れてみて下さい。