北野天満宮から北東、金閣寺の東側に位置する船岡山。
標高112メートル、面積2万5千坪で、「山」というよりも、「小高い丘」と言った方が良いような小さな山です。
船岡山は、平安京の中軸線であった朱雀大路を北側に延長したところにあります。
つまり船岡山は、平安京を造営する際、測量の基準点としていたようです。
また、室町時代の応仁の乱の際には、西軍の陣地となり、以来船岡山周辺一帯は「西陣」と呼ばれるようになりました。
そんな船岡山の中腹に
正式名称は「たけいさおじんじゃ」なのですが、通称である「けんくんじんじゃ」と呼ばれるのが一般的です。
ここには織田信長公が祀られています。
本能寺の変で信長が没した後、豊臣秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を行います。
そして、大徳寺からすぐ南にある船岡山に信長の
時の正親町天皇からお許しを頂き、「天正寺」という寺号まで頂いたのですが、石田光成によって計画倒れになってしまいます。
しかしそれ以来、船岡山は信長の霊地とされています。
信長着用の
このように、船岡山は歴史上に度々登場することもあって、国の史跡に指定されています。
難関突破・大願成就の社
建勲神社が創建されたのは明治二年(1869)のこと。
明治天皇によって建てられ、明治八年には、国家に功績を挙げた人物を祀る、別格官幣社に列せられます。
神社名に使われている「建勲」は、明治天皇が信長の偉勲を称えて贈った神号なのです。
そのような社である建勲神社の御利益は難関突破・大願成就。
天下統一に向けて次々に難関を突破した信長らしい御利益です^^
しかし、なぜ明治になってから建てられたのでしょう?
しかも、天皇家が武将を祀る神社を建てるのは前代未聞ですよね。
その理由は、明治維新によって新しい価値観が生まれたからです。
国家の宗祀のあり方が変わり新しく神社を等級化する制度、近代社格制度も登場します。
社格が高い順に「官社」、「諸社」、「無格社」とあります。
官社はさらに、皇室から幣帛が奉られる「官幣社」、国庫から幣帛が奉られる「国弊社」に分けられます。
そしてその中でも大・中・小の格があり、
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
となります。
日本にはたくさんの神社がありますが、官社の社格を頂ける社はごくわずか。
かなりの影響力のある社であると考えることができますね。
その中に、国家に功績をあげた忠臣を祀る神社別格官幣社という社格があります。
別格官幣社は全国に28社あって、建勲神社以外の別格官幣社は、楠木正成を祀る湊川神社(兵庫県)、護良親王を祀る鎌倉宮(神奈川県)菊池武時を祀る菊池神社(熊本県)などがあります。
信長の功績は、戦乱が絶えない戦国時代を終わらせ、天下を統一したこと、戦乱で荒れた京都を再興したこと、疲弊した民衆を救ったこと、西洋と上手に付き合ってその文化や軍事力を仕入れ、外国による日本の植民地化を未然に防いだことなど、日本の近代化へのさきがけとなったことが挙げられています。
稲荷大神の霊験を高める霊狐を祀る 稲荷命婦元宮
建勲神社の境内に入ってすぐ、鳥居が続く階段が現れます。
この階段は、末社 義照稲荷神社へ登る階段です。
そしてこちらが稲荷社。
一見、よくある稲荷神社なのですが、裏手に周ってみると、伏見稲荷大社の奥宮のある稲荷山で見られる民間信仰の形、「お塚」がいくつかあります。
お塚信仰が稲荷山以外で見られるのも珍しいですね。
そしてここには、他の稲荷神社にはない稲荷命婦元宮という社がすぐお隣にあります。
伏見稲荷大社には、白狐の霊を祀る
霊狐は稲荷大神の眷属(お使い)で、特殊な神通力を持っています。
この霊力をもって、お稲荷さんに取り次いでくれる、ということで、命婦信仰という信仰も生まれました。
お稲荷さんの眷属ともなると、それほど大きな影響力を持っているわけですね。
そしてこの元宮には、伏見稲荷大社の命婦社の親神である「船岡山の霊狐」が祀られているのです。
お稲荷さんの良き秘書、といった感じですね。
良き秘書がいれば、社長もパワーを最大限に発揮できます。
ここにお塚を建てた人々は、命婦信仰の信者なのかもしれませんね。
大文字山が眺められる本殿
麓から階段を上って行くと、途中で信長が好んだという幸若舞の演目のひとつ「敦盛」の一節を刻んだ歌碑があります。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」
と書かれていますが、信長のドラマなどでもよく使われているセリフですね^^
「下天」というのは、天上界のうち、いまだ欲望に捉われる6つの天界の第五位の世界。
天上界は人間界より上の世界で、1日の長さは人間界の50年、寿命は500歳ほどあるとされています。
つまり、人間界の50年は、下天のたった1日に過ぎず、人の世というのはほんの一瞬ではかない、という意味になります。
織田信長は49歳で亡くなっていますし、ちょうどこの一節がマッチするような感じがあって、ドラマでは主に本能寺の変で死ぬ間際に使われることが多く感じます。
でも実際には、桶狭間の合戦の出陣前に信長自身が舞われたことで知られています。
特にこの節が好みだったようです。
そしてこちらは広めな社務所前。
奥には拝殿と本殿があります。
拝殿前には獅子と狛犬。
筋肉ムキムキで力強く、頼もしい門番です。
こちらが拝殿。
この拝殿の内側には、信長に尽くした家臣「織田信長公三十六功臣」のうち十八功臣の額が飾られています。
18人しか飾られていないのは、スペースの都合なのだそうです^^;
拝殿には上がれないので、少し遠目で、しかも光が反射するのでちょっと見えにくいですね^^;
「織田信長公三十六功臣」というのは、信長が朝廷から官位を勧められた時、それよりも信長と生死を共にした家臣への恩賞を第一に願い出たというエピソードがあります。
それに基づいて、神社創建の時に36名を選んだのだそうです。
描かれた家臣の名前とその功績は、健勲神社の織田信長公三十六功臣のページに書かれていますのでそちらをご覧ください。
有名どころでは、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、森蘭丸などが描かれています。
さすがに明智光秀はいませんね^^;
そして、拝殿から後ろを振り向いた景色。
奥の方には、お盆に行われる「五山送り火」の「大文字焼き」で有名な、東山の如意ケ嶽が見える、なかなか良い景色です^^
昼間でも見えますから、送り火の当日は「大文字」が良く見えるでしょうね。
残念ながら嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」は見えませんが、金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」は見ることができるようです。
当日は大勢の人で賑わうそうですよ^^
健勲神社の御朱印
健勲神社の御朱印です。
下の印は織田信長が織田信長の政策の一つで、日本全国を武力で統一するという意志を示した
オリジナルの御朱印帳もあります。
こちらも「天下布武」。
これはかっこいいですね^^
刀剣ファン必見!京都刀剣御朱印めぐり
健勲神社は普通の御朱印のほか、「京都刀剣御朱印めぐり」の一つになっています。
粟田神社、藤森神社、豊国神社と合わせて、1つの色紙に朱印を頂きます。
限定1,000部で1部700円。御朱印は1箇所で300円です。
残念ながら配布は終了してしまいましたが、増刷も予定されているようです。
健勲神社に伝わる刀剣は、
「左文字」は九州の刀工の一派で、南北朝時代に作られた刀です。
現在は京都国立博物館に寄託されています。
最初は三好宗三が所持していたため、宗三左文字と呼ばれています。
この刀の持ち主は、
三好宗三⇒武田信虎⇒今川義元
と持ち主が移り変わり、桶狭間の合戦で今川義元を討った信長が戦利品として持ち帰り、愛刀にしたわけです。
本能寺の変の後は、松尾大社の神官の手を経て、
豊臣秀吉⇒豊臣秀頼⇒徳川家康
と移り変わり、徳川将軍家の重宝として代々受け継がれていきます。
このように、狙う武将や天下人に受け継がれてきたので、別名「天下取りの刀」とも呼ばれています。
明治になって健勲神社が創建されると、徳川家から神社に寄進されたのだそうです。
神社に来ても刀を見ることはできませんが、ゆかりのある神社で刀にちなむ御朱印が頂けるのもうれしいですね^^
今回は、刀剣御朱印を頂こうと思って訪れたのですが、神社についてから色紙を家に忘れていることに気づきました^^;
また機会を見つけて頂きに来ようと思います。
境内にはほとんど人がいませんが、時々、刀剣ガール達がこの御朱印を頂く姿がちらほら見られました。
男性は一人も見かけませんでした。
今女性の間で日本刀が流行っている、というのは本当なんですね。
私も詳しくなりたいです^^