建仁寺 霊源院

建仁寺の南東にある霊源院。
室町時代に創建されたお寺で、14ある建仁寺の塔頭寺院のひとつです。

塔頭(たっちゅう)というのは禅宗寺院で使われる言葉ですが、これは、宗で活躍した祖師が亡くなった後、弟子が師を慕って、供養するために建てた小寺のことをいいます。
禅宗では、師と弟子の関係が超重要視されていたので、供養のためにお寺まで建てちゃうんですね^^

霊源院では、この祖師にあたる僧が龍山徳見(りゅうざんとっけん)和尚、実質的にお寺を創建した弟子が一庵一鱗(いちあんいちりん)和尚となります。

鎌倉時代末期から室町時代に五山文学が栄えましたが、霊源院は五山文学の最高峰の一つとされていていました。

「五山文学」というのは、簡単に言うと自分の心の内を漢詩にして表現する文学。
その室町時代の頃、宋と貿易していた日本では、漢詩を作る才能が重要視されていたんです。
時代にマッチした学問だったので、それを行っていた禅宗寺院が発展したんでしょうね。

そんな時代に霊源院は五山派の代表的学僧を多く輩出しています。
「建仁寺の学問面(がくもんづら)」という俗称がありますが、これは、建仁寺が詩文芸術に優れていたという証でもあります。
その中核を担っていた寺院の一つが、霊源院なんです。

中でも霊源院の学僧だった慕哲龍攀(ぼてつりゅうはん)は、幼いころの一休さん、一休宗純に漢詩を教えたことで知られています。

霊源院は普段は非公開(2015年4月からは予約受付で拝観)なのですが、「第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開」で特別拝観しに行ってきました。

五山文学の天才、龍山徳見はどのような人物だったのか?

霊源院の開山(勧請開山)である龍山徳見は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した禅僧です。

22歳の時に中国(元)に渡り、40年も修行をしていたのですが、当時、中国最高峰とされていた兜率寺で、外国人として始めての住持を務めています。

中国の官寺でもあった兜率寺で、外国人が住職を務めるというのは異例中の異例。
それだけ才能が見込まれた高僧だったのでしょうね^^

実際に、当時の中国では臨済宗黄龍派が途絶えそうになっていたのですが、それを再興したというすごい実績も残しています。

徳見は日本に帰るつもりはなかったのですが、室町幕府を開いた足利尊氏の強い希望で帰国。
建仁寺をはじめ、南禅寺天龍寺などの住持を務め、日本に禅の心や漢詩を伝えました。

霊源院と同じく、五山文学を発展させた建仁寺の塔頭・両足院も、龍山徳見を勧請開山としていますから、徳見は五山文学の発展に大きく貢献しているわけですね。

また、帰国するときにお菓子を持って帰られました。
今では代表的な和菓子になっている「まんじゅう」です。

中国ではまんじゅうのことを「マントウ」と言いますが、そこには現在の肉まんのように肉が入っていました。
しかし、日本の仏教は肉食はもちろん、殺生が禁じられていたので、肉入りのまんじゅうは食べられません。

そこで、甘く煮た小豆を詰め込んで召し上がったのが日本のまんじゅうの起源となっています。

また、建仁寺を創建した栄西禅師は、お茶を日本に伝えた茶祖でもあります。
なので、お茶とお菓子という組み合わせで、禅宗は茶道ともゆかりが深く、全国に広がっていったのです。

70年ぶりに戻った中巌円月坐像、毘沙門天立像が初公開!

2015年1月に、同院にゆかりの深い高僧中巌円月(ちゅうがんえんげつ)坐像と、その胎内仏の毘沙門天立像が、約70年ぶりに京都国立博物館に戻ったというニュースがありました。

霊源院ではこれまで保存環境が整っていなかったために博物館に寄託していたのですが、このたびお寺の方で受け入れ態勢が整ったということで里帰りしたのです。
そして今回の「京の冬の旅」では、その2躯が公開されているんですね^^

まずは中巌円月坐像。
堂内は撮影禁止なので、パンフレットで紹介します。

写真右側が中巌円月坐像です。

中巌円月和尚は、霊源院と同じく建仁寺の塔頭であった妙喜庵の開山住職でした。
その妙喜庵は、明治の廃仏毀釈で霊源院が統合され、お寺は霊源院の名前が残ったので、ここに中巌円月和尚の像が伝わっているわけです。
とはいえ、もうひとつの霊源院の開山の祖ともいえますね^^

このお姿は晩年の等身大のお姿。
75歳まで存命だったので、70代のお姿ではないか?と言われています。

鎌倉から南北朝時代にかけては肖像彫刻が全盛だった頃で、師を大事にする禅宗では、まるで生き写しのように写実的に作ります。

目に水晶の玉「玉眼」を入れていて、表情もどこか優しそうでもあり、厳しくも見える複雑さがあって、まるで人間のように見えるんですね。
衣紋の流れもごく自然に見える彫刻がなされていて、南北朝時代の肖像彫刻の最高傑作の一つとも言われています。

手に持っている棒は、禅宗の僧になるための儀式で使う竹篦(しっぺい)という法具。
「しっぺ返し」の語源にもなっています。

この竹篦がもう少し大きくなったものが、座禅のときに肩を叩く警策(けいさく)になります。
似ているようで別物ですね^^;

お次は中巌円月坐像の中に入っていた体内仏、像高37.5cmの毘沙門天立像。

霊源院 毘沙門天

これは平成8年、中巌円月坐像の修理の方向性を決めるためにX線調査をしたのですが、その時に体内で見つかったのだそうです。
中巌円月和尚が大事にしていた像だったようで、弟子が師を想って肖像内に入れたのでしょうね。
実に800年も像内にあったということです。

中巌円月坐像は一本の木で作る一木造なので、パーツごとに組み立てる寄木造のように外すところはありません。
ただし、お尻にふたがあったそうで、そこから入れたのでしょう。

出てきた毘沙門天立像は、和尚の像よりも古い鎌倉時代の作。
天才仏師、運慶や快慶もいた慶派の仏師が手掛けたもので、年代的に運慶の子息、湛慶(たんけい)の作ではないか?と言われています。
しかも、修復もほぼしていないということなのに、見事な美しさを保っています。

厳しい表情、目には玉眼、動きのある衣の表現、冠や甲冑は精緻に作られています。
衣がたなびいていている表現も、今にも動きそうな感じです^^

この像の最大の特徴は手に持つ持物。
右手に持つ三叉戟(さんさげき)という三又の槍はよく見るのですが、注目は左手の水晶。

普通なら毘沙門天は、舎利塔というお釈迦様の遺骨(仏舎利)が入った二重塔を持っているのですが、ここでは水晶を持っているんです。
例外として唯一とも言われています。

この水晶は、天台宗を開いた最澄が日本に持って帰ってきた水晶なのだそうで、肉眼では確認できない、砂粒ほどの細かい仏舎利が入っているのだとか。
なので、塔の代わりでも良いわけですね。

ちなみに、霊源院の御本尊は薬師如来。
小さな薬師如来とその周りに十二神将がちゃんといらっしゃるのですが、中巌円月坐像が帰ってきて、その後ろに隠れてしまっています^^;
運慶の父である康慶作ではないか?と言われているのですが、御本尊の所にはライトがなく、暗かったのでよく見えませんでした^^;

堂内にある二つの茶室

霊源院は小さなお寺なのですが、茶室が二室あります。
(残念ながら堂内撮影禁止なので、写真はありません^^;)

一つは、茶室としては一般的な四畳半の広さの也足軒(やそくけん)

名前に、「足る」「(なり)」という字を使っているのですが、これは、「今あるものに満足して活かしきる」という意味合いがあります。

変わっているのは茶室への入り口。

通常、茶室の入り口は「にじり口」と言って、人が身体をにじるようにしてようやく入れるだけの茶室独特の入り口になっています。
この茶室が特徴的なのは、にじり口はついているのですが、にじり口の上にもう一つ飾り窓が付いているんです。

そしてもう一つ、通常の茶室は庭から入るものなのですが、ここはなぜか本堂側ににじり口があるんです。
例外尽くしの茶室ですね。

もう一つの茶室は、広さが二畳ほどの小ぶりの茶室妙喜庵
中巌円月和尚が住持をしていた妙喜庵の古材を使って建てられた茶室です。

花頭窓という、禅宗寺院でよく見かける、ろうそくの火の形のような窓が付いているのも変わっています。

とにかく「狭い」というのが第一印象なのですが、これは千利休が、シンプルで使い勝手の良さを追求したものなのだとか。
実際に茶の道を追求してみないと、その良さはわからないのかもしれません^^;

霊源院の御朱印

霊源院の御朱印です。

建仁寺 霊源院 御朱印

毘沙門天の印がかっこいいですね^^


霊源院には「甘露庭」という庭園もあって、甘茶を植えた枯山水の庭園もあります。
甘茶はアジサイのような花をつけるのですが、5月中旬から6月初旬が見頃となるので、それくらいの時期に拝観できればよさそうですね^^

お釈迦さまが生まれた時、龍が甘露の雨を降らせたという説話に基づいているのですが、沙羅双樹など、お釈迦さまにゆかりのある木々も植えられています。

4月1日から予約受付で拝観できるようになるそうで、時々今回のように特別拝観で一般公開も行うようです。
住職さんがいる時は、也足軒でお茶を点ててもらえる場合もあるようですよ^^
予約受付で拝観するときは、他にお客さんがいないので点ててもらえるかもしれませんね♪

写経や写仏が出来る部屋も入り口近くにありましたので、そういう体験をしに行ってみるのも良さそうです。

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