京都御所に面して東側にある、浄土宗大本山 清浄華院。
浄土宗八総大本山の1つで、皇室とも近しい関係を築いてきた、由緒あるお寺です。
浄土宗のお寺と言えば、阿弥陀如来を本尊として「南無阿弥陀仏・・」と念仏を唱えるのが一般的なのですが、清浄華院は、浄土信仰とは無関係な不動明王の信仰も盛んになっている、不思議なお寺なんです。
その理由は、霊験あらたかさがあまりにも有名になった泣不動尊というお不動さんにあります。
お寺には泣不動縁起絵巻も伝わっていて、泣不動尊の霊験譚であるとともに、陰陽師
泣不動尊は経年劣化が激しいため普段は秘仏とされています。
泣不動縁起絵巻も博物館に委託しているため、普段は公開されていません。
しかし、泣不動尊像の修復事業が無事完成をしたということで、京都で毎年行われる「秋の非公開文化財特別公開」で御開帳をすることとなったそうです。
泣不動尊像の霊験譚を有名にした「泣不動縁起絵巻」も合わせて拝観することができます。
そこで私はその時期を狙って訪れてみました。
浄土宗の大本山ですが、元々は天台宗でした
こちらは、浄土宗の祖、法然上人の
清浄華院の本堂にして、一番大きな建物なので「大殿」と呼ばれています。
内陣の中央には、法然上人42歳の時の若々しい像が祀られています。
法然上人というと、晩年の像が多いのですが、こちらはまだ脂がのっている感じでまだまだ活躍できそうなお姿でした^^
そして、42歳というのは男性の厄年にあたります。
なのでこの法然上人像は「厄除けの法然さん」と呼ばれています。
大殿の横にある建物は「大方丈」。
仏堂のことで、ここには阿弥陀三尊像が祀られています。
恵心僧都源信の作と伝わる中尊の阿弥陀如来坐像、そして両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩は、「大和座り」という座り方。
「正座」という座り方が確立される前の座り方で、正座のようで正座ではない、独特な座り方です。
大原三千院の往生極楽院に安置されている国宝「阿弥陀三尊像」も大和座りですね。
この三尊像は、これから死にゆく衆生をお迎えに来る様子を表しているそうです。
そして、そのお隣には浄土の庭を臨む「小方丈」があります。
こちらが浄土の庭。
石がたくさん立てられていますが、これは、阿弥陀如来やお伴の菩薩の光明を表しているのだそうです。
まるで浄土を見ているかのように意識された浄土式庭園ですね。
また、普段は非公開ですが、足利将軍家から頂いた、国宝の「絹本著色 阿弥陀三尊像」なども伝わります。
このように浄土宗らしい雰囲気がありますが、実は清浄華院の開山は平安中期の貞観二年(860年)で、開山者はなんと、慈覚大師 円仁なんです。
円仁と言えば、天台宗の祖、最澄に次ぐカリスマ僧侶ですね^^
最澄亡き後、天台の教えの地盤を固めた、天台宗になくてはならない人物です。
その円仁が、清和天皇の勅願で宮中の仏殿に禁裏内道場として建立したのが始まりです。
天台円教、天台密教、戒律、浄土など、仏教の四つの学問を学ぶ道場であったほか、国家泰平や天皇陛下のご健康などを祈る鎮護国家の道場でもありました。
つまり最初は、天皇直属の仏教道場だったということですね。
そのような寺院であったことを示すかのように、手水舎には円空仏のような水かけ不動さんがいらっしゃいます。
そして、入り口付近には不動堂があります。
不動堂の堂内には、木造半丈六の不動明王坐像が安置されていて、その前で護摩供養を行ったりしています。
浄土宗の寺院では見かけない光景ですよね^^
浄土宗として芽生えるのは、平安後期のこと。
念仏を称えることこそ唯一の救いの道であるという僧が登場します。
それが、天台宗で修行した後、山を下りて浄土宗を開くことになる法然上人です。
身分を問わずその教えを広めていたので、その教えの噂は広がり、その噂は時の天皇や法皇などもその教えを請うほどでした。
後白河法皇、高倉天皇、後鳥羽上皇から信認が篤く、法然上人の教えに感動した後白河法皇は、承安五年(1175年)に、法然上人が宿代わりに使っていた清浄華院を、上人に授けたのでした。
これによって、清浄華院は浄土宗寺院となったのです。
このような理由から、清浄華院は浄土宗でありながら、お不動さんを信仰する名残が残っているんでしょうね。
不動信仰の場としての清浄華院
不動堂の中には、半丈六の不動明王坐像が座っていらっしゃいます。
割と最近作られたという新しいもので、現在で3代目なのだとか。
その坐像の前で護摩会を行うのですが、私も参加させてもらいました^^
小さなお堂なのですが、二メートル近い坐像はかなり圧倒されます。
しかし、その半丈六の不動明王坐像あくまでお前立ち。
本来の御本尊は、
この泣不動尊こそが、清浄華院で古くから存在する不動信仰の根本本尊。
感動で目に涙を浮かべる霊像です。
その霊験あらたかさは泣不動縁起という絵巻物によって全国区にその名を知らしめました。
普通、縁起絵巻には横に解説が付いているものですが、ここに伝わる泣不動縁起絵巻には解説は一切書かれておりません。
多くの説話集に題材として取り上げられていたので、説明不要なほど誰もが知っているものだったから省いた、と考えられているのです。
説明不要なほど有名だった泣不動縁起
泣不動の説話は、滋賀県にある園城寺(三井寺)が舞台となっています。
このようなお話です。
ある時、三井寺の高僧・智興が重い病気にかかってしまいました。
弟子達が陰陽師・安倍晴明に占ってもらうと、
「これは死病なのでどうしようもないのだが、もし弟子の中で身代わりになれるというものがいるのであれば、祈祷することはできます。」
と答えます。
智興にはたくさんの弟子がいましたが、誰も手を上げることはできません。
そんな中、一番若い弟子であった証空が、
「自分が身代わりになりましょう」
と、名乗り出たのです。
証空は、実家に帰って母に事情を話し、止めようとする母を説得して三井寺に戻ってきました。
晴明は式神を従え、秘法の儀式を行います。
冥界の役人たちと交渉、見事、病に伏せた高僧の命を救うことに成功しました。
そして、証空は師の身代わりとなるのです。
しかし、想像以上の苦しみに耐えかねた証空は、
「私は死ぬのは構いませんが、この苦しみだけは耐えられないのです。不動明王さま、どうかこの苦しみだけでも取り除いて下さい」
と祈ります。
すると、夢の中に不動明王が現れ、涙を流しながら
「汝は師に代わった。なら我は汝に代わろう」
と言い残し、不動明王の掛け軸がハラリと落ちました。
すると証空の苦痛は治まり、病も回復したのです。
不動明王の掛け軸は、感動で涙した不動明王の姿に変わっていました。
不動明王は死ぬはずだった証空の身代わりとなったので、地獄の使いに縛られて、閻魔王のいる瞑附に連れて行かれます。
その姿を見た閻魔王は、
「あなたは不動明王さま!部下の非礼をお許しください。どうぞ現世へお戻りください」
と、平伏します。
現世に戻った不動明王は、泣不動として篤く信仰されるのでした。
と、このような話です。
上の写真は、不動明王が地獄に連れて行かれるシーンですね^^
不動明王が地獄に連れて行かれたのは、証空が親より先に死ぬことになっていたからです。
だから、その身代わりである不動明王は地獄に行ったんですね。
清浄華院には、このような泣不動縁起絵巻が二つ伝わっています。
- 重要文化財 紙本着色『泣不動縁起』絵巻(重文本)・・・室町時代作
- 紙本着色『泣不動縁起』絵巻(永納本)・・・江戸時代作
の二種類です。
重文本は、当時の狩野派絵師のトップ、狩野永納が持っていたのだそうですが、それを後水尾天皇に見せたところ、天皇はそれに興味を持ち、永納に模写を命じたのでした。
そしてその模写は、後水尾天皇のコレクションの一つとなります。
その後、後水尾天皇が退いて、子の霊元天皇の時代。
泣不動の御開帳があったので、宮中に呼び寄せました。
泣不動の掛け軸を拝んだ天皇は、自分の持っている縁起絵巻を見せたくなってしまい、僧侶たちに見せびらかしたのです。
この時、お寺には縁起絵巻などの寺物は伝わっていませんでした。
応仁の乱で大打撃を受けた時に手放していたのです。
僧侶たちは、お寺の発展のために、その絵巻を賜りたいと天皇に願い出ます。
そこで霊元天皇は、お寺に寄進したのだそうです。
こうして最初にお寺の所有となった縁起絵巻は永納本の方でした。
その後、狩野永納より絵巻を譲られたという入江孝治という人物が、ゆかりのあるものだからと、お寺に寄進したのが重文本です。
こうして二つの縁起絵巻が伝わっているのですが、別の説として重文本は、室町時代に清浄華院が制作を依頼したというものもあります。
また、そもそも持ち主は清浄華院ではなかった、という説もあります。
このあたりはまだ謎のままなのだそうです^^
泣不動尊像は、滋賀県の園城寺(三井寺)から持ち込まれたものでした
泣不動尊の話は、三井寺が舞台であると言いましたが、それならその尊像である掛け軸は、三井寺にあるはずです。
なぜ清浄華院にあるのでしょう?
実は、三井寺から持ち込まれたものなんです。
絵巻に描かれている証空は、後に皆に慕われる高僧となったのですが、その証空が開いたという三井寺塔頭 常住院の宝物として伝わりました。
そんな泣不動尊像を清浄華院に持ち込んだ人物というのは、鎌倉末期から南北朝時代かけてに浄土宗の学僧として有名になった、清浄華院第五世・
向阿上人は当初、三井寺で泣不動尊を信仰していた僧侶だったのですが、浄土宗の清浄華院に移り、その時に泣不動尊を持ってきたのです。
清浄華院の不動信仰は、ここから始まったと伝わっています。
こちらも泣不動尊に関するエピソードが「浄華院霊宝縁起」にあります。
三井寺で泣不動尊を信仰していた向阿上人は、若くして弟子がいるほど優秀な学僧でした。
弟子の中には稚児が一人いて、たいそうかわいがっていたのです。
そんなある日、上人は大病にかかってしまいます。
死の淵をさまようほどだったのですが、なぜか突然、何事もなかったかのように回復したのです。
すっかり元気になった上人ですが、いつもかわいがっていた稚児が見当たりません。
探してみると、なんと稚児の家で、かわいかった稚児の葬儀が行われていたのです!
聞くと、上人の病気が治った頃に稚児はなくなったのだとか。
上人は号泣して悲しんだのですが、泣不動尊の厨子の中に一通の手紙が出てきました。
それは稚児が「上人のために身代わりになりたい」と不動尊に当てた手紙だったのです。
自分のために未来ある稚児が死んだことを悟った上人は、自分の無力さを痛感し、稚児の菩提を弔うために、清浄華院第4世・礼阿然空のもとで浄土門に帰依したのです。
泣不動尊像は、この時に清浄華院に移ったとされています。
今の価値観じゃわからないのですが、三井寺のものを勝手に持ち出していますね^^;
でも、三井寺は懐の広いお寺ですから、今更返せなんてことは言わないでしょう^^
現在特別拝観中の泣不動尊像は、本来の場である不動堂ではなく、法然上人の御影を祀る御影堂(大殿)で拝観することができました。
大殿の内陣中央には法然上人の像があって、不動尊像はその西側にある小さな間の奥に祀られていました。
小さな間なのですが、その間には入る事は出来ず、泣不動尊像は、縦50cm、横26cmほどの小さな絵。
しかも修復したとはいえ、江戸時代には既に損傷が激しかったことがわかっており、それ以上の修復はすることができません。
何が描かれているのか見えにくい感じでした。
実際にはそばに置かれているレプリカ写真でお姿を拝見することになります。
度々江戸まで出開帳に出ることがあったようなので、損傷が激しかったのでしょうね。
それに対して泣不動縁起絵巻は、彩色がキレイに残っていて、物語を一度理解していれば、絵を見るだけでどの場面かわかります。
そのせいか、信仰の根本である泣不動尊像よりも泣不動縁起絵巻の方が有名になっているようですね^^;
尊像は、見えにくくて残念に思う方もいるかもしれませんが、私は、見ているうちになんだか祈り続けたくなるような気持ちになりました。
尊像を公開するチャンスは過去に結構あったようなので、その時はぜひ現地に行って、そのパワーを感じ取ってほしいなあと思います^^
清浄華院の御朱印
清浄華院には御朱印が3種類あります。
- 法然上人二十五霊場第23番
- 泣不動尊
- 安倍晴明
です。
そのうち、泣不動尊と安倍晴明の御朱印を頂きました。
まずは、泣不動尊の御朱印です。
そして、安倍晴明の御朱印です。
印は、泣不動縁起に登場する場面がモチーフになっています。
当初、泣不動尊御開帳限定の御朱印だったのですが、オークションで転売するという悪質な事例が発生したため、期間後も授与するようにしたそうです。
御朱印はお守りのようなものですから、そんなことをしてはいけませんね^^;
御開帳中は、寺務所の裏にある是心堂にも入れてもらえました。
そこには、二巻の泣不動縁起絵巻のほか、三井寺と同じ縁起をもつ秘仏の「波切不動尊」のほか、木造「秋葉権現立像」、「金比羅権現立像」なども均整がとれて美しく、見ごたえがありました。
清浄華院は、境内は広くありませんが、見どころいっぱいのお寺ですね^^