JR奈良駅から三条通りを東に向かうと、奈良八景の一つ「猿沢池」があります。
猿沢池からすぐ北側には阿修羅像で有名な興福寺があって観光客がたくさんいるのですが、対して南側は静かな町並みが広がっています。
人通りも少なく、観光地気分で歩くとちょっとさびしい感じ。
その町並みに溶け込むように世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つに登録されている
今でこそ境内はそこそこ広いくらいですが、全盛期の元興寺の寺領は、現在のならまちの主要部分を占めるほど広大。
猿沢池を挟んで「北の興福寺」、「南の元興寺」と、興福寺と比較されるほどのお寺だったのです。
奈良時代には南都七大寺の一つに数えられていた由緒あるお寺なんですね。
しかも朝廷が下した格付けは、東大寺に次ぐ二番手!!
天平勝宝元年(749年)に各官寺の持つ墾田の地限が定められたのですが、その際、
- 東大寺:四千町
- 元興寺:二千町
- 大安寺・薬師寺・興福寺:それぞれ一千町
- 法隆寺・四天王寺:五百町
となったのです。
具体的には、現在の地名でいうと、北は猿沢池のほとりから、南は平城京の南の果てであった「京終」まで及んでいたのだそうです。
それほど影響力のある大寺院も、時代の流れが変わると衰退の一途をたどってしまいました。
下は境内に並べられている講堂礎石。
かなり大きな石で、この上に直径80~90cmもの柱が建てられていたことが想像できます。
それだけの柱を使うわけですから、かなり大きな建物だったのでしょう。
このような礎石は、元興寺の境内だけでなく、さらに南側に下った元興寺塔跡にも見られます。
それだけ伽藍が揃っていた元興寺が、なぜ衰退したのか?
その理由は、歴史をたどっていくと想像できるような気がします。
元興寺の前身は飛鳥寺だった
元興寺の前身は、蘇我馬子によって飛鳥の地に創建された日本最初の本格的伽藍寺院「法興寺」です。
現在も存在する、「飛鳥大仏」で有名な飛鳥寺のことです。
なので飛鳥寺は、「本(もと)元興寺」とも呼ばれているんですね。
「法興寺」は、崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子や聖徳太子が中心となって、「仏法興隆」を願って開創された蘇我氏の氏寺でした。
藤原京時代には、藤原京の四大寺にも列せられたのです。
和銅三年(710年)、都は藤原京から平城京へ遷都するのですが、それにともなって当時の大寺は次々と新京に移りました。
法興寺も「元興寺」と名前を改めて現在の地に移転したのですが、移ったのは養老二年(718年)のこと。
厩坂寺が遷都と同時に移って「興福寺」となったのとは対照的に、法興寺は実に8年も間があいています。
その8年、なにか理由がありそうですよね^^
あくまで想像ですが、勢力争いが関係しているように思えるのです。
一方で興福寺の方は藤原氏の氏寺として建立されました。
藤原氏は大化の改新で活躍した
大化の改新以降、長きにわたって天皇の補佐役、つまりは政権の座につくことになります。
平城遷都の頃は藤原氏が政治の権力者となっていたので、一族の氏寺がすぐに新都に移ってきたのも理解できます。
それに対して法興寺はかつての権力者蘇我氏の氏寺です。
蘇我氏は言わば、藤原氏が大化の改新で倒した政敵。
そのような一族の氏寺を新都に移すのは、あまり気が進まないでしょうね^^;
法興寺側も藤原氏に従いたくはなかったでしょう。
しかし、遷都前から法興寺は教学を広める立場にあったので、無視できる存在ではありません。
新都に移った人々からもかなりのニーズがあったでしょう。
結局遷都から8年後に一部だけ移転するのですが、完全移転ではなかったのも、そのような経緯があったのではないかと思います。
下の写真は、元興寺の本堂、極楽坊(国宝)。
そしてその後ろには元興寺の僧坊の姿を伝える禅室(国宝)があります。
そこには、飛鳥時代の遺構を偲ぶ瓦が残っています。
一部に赤見を帯びた瓦が葺かれているのですが、それが飛鳥の法興寺から運ばれてきたものです。。
元興寺の屋根で使われている瓦は、大きく2種類に分けられるのですが、一つは飛鳥の法興寺から運ばれてきたもの。
もう一つは、平城京で新しく作られたものです。
古い時代のものと新しい時代のものでは、瓦と瓦を重ねるジョイント部分の作りが違うのですが、飛鳥から持ってきた瓦で葺いた瓦葺きは行基葺きと呼ばれています。
元興寺はかなり衰運が激しかったお寺ですが、まだ創建当時の瓦が残っているのもすごいですね^^
これに祈れば極楽往生!極楽堂の本尊 智光曼荼羅
極楽堂にいらっしゃる御本尊は、
仏像ではなく、曼荼羅なんです。
ちょっと変わってますね^^
「曼荼羅」というのは、仏の悟りの境地であったり、仏の世界観を描いたもの。
智光曼荼羅は、奈良時代の僧侶「智光法師」が夢で見た極楽浄土の様子を描いたものです。
当麻寺の「当麻曼荼羅」、超昇寺の「清海曼荼羅」と並んで、浄土三曼荼羅の一つに数えられています。
智光法師は、同じく元興寺の頼光(礼光)とともに、三論宗の第一人者でした。
当時の三論宗については、学派が大きく二つに分かれていて、大安寺の道慈をトップとする大安寺流と、元興寺の智光・頼光をトップとする元興寺流に分かれていました。
元興寺は三論・法相の初伝の法燈を受け継ぐお寺でもありましたので、智光法師と頼光法師は、エリート中のエリートということになりますね。
元興寺には、智光曼荼羅が生まれたエピソードが残っています。
奈良時代、元興寺の僧坊に、智光と頼光という2人の名僧が住んでいました。
親友同士、学術の研鑽に励んでおられたのですが、頼光はある時から口数が少なくなり、ぼんやりとして勉強もされなくなったのです。
どうしたことか?と訪ねてみても頼光は何も答えず、間もなくして他界してしまいました。
智光は、修行もしなかった頼光の晩年の様子から、死後どのような世界に生まれたのか心配で仕方ありませんでした。
しきりにそのことばかり案じていたので、とうとうある夜、夢の中で頼光のもとに行ったのです。
たどり着いた世界はまさに、阿弥陀経に書かれていた極楽そのもの。
頼光に訪ねると、まさしく極楽浄土であると答えます。
しかしなぜか、
「ここはお前のいるところではない。早く帰りなさい。」
と、追い返そうとするのです。
実は頼光は、智光がしきりに案じていたので、特別に自分の世界を智光の夢で見せてあげていたのでした。
智光は、
「どうして私は極楽往生を願っているのに、ここに留まることはできないのだ?
なぜお前は修行もしていなかったはずなのに、ここに生まれ変わることができたのだ?」
と訪ねると、頼光は、
「私は晩年、学問を捨て、言葉を絶って、ひたすら阿弥陀如来と極楽浄土を瞑想していたのだ。」
と答えます。
そして阿弥陀如来に引き合わせてもらった智光は、阿弥陀如来から仏の姿と浄土のさまを観想する行を積むべきことを教わったのです。
目覚めた智光は、夢で見た極楽浄土の様子を絵師に描かせました。
そしてそれを、浄土観想行という修行に使ったのです。
そしてついには極楽往生を遂げることができました。
智光曼荼羅が生まれたエピソードはこのように語られています。
「極楽堂」という名前もそういう理由からきているんですね。
智光はこのエピソードから、日本の浄土教の第一祖としても有名です。
そして、こちらが智光曼荼羅。
(写真:「古都巡礼 奈良6 元興寺」より)
奈良時代に描かれた智光曼荼羅の原本は、宝徳三年 (1451年)の土一揆による火災で焼失してしまい、現存しませんが、現在は鎌倉時代の板絵本や室町時代の厨子入り絹本着色本が現存しています。
元興寺は平安時代に入ると、平安遷都の影響を受けたり、興福寺など他の勢力に押されたりして官寺としては衰退していきますが、庶民の間では、ここにこけら経や石塔を納めると極楽へ行ける、といった信仰が生まれ、それが中心になっていきます。
極楽堂や禅室の横には
このように石塔・石仏(浮図)類を田んぼの稲のごとく並べるのは中世の供養形態。
これらは、生前に自らの極楽往生を願って建てられた石塔ですね。
石塔の種類は色々あって、鎌倉時代末期から江戸時代中期と、時代を超えて建てられています。
元興寺に伝わる もののけ伝説
元興寺では毎年節分会の時、上のような絵馬を授与しています。
絵馬の表面は鬼の絵が描かれていますが、この鬼は
「ガゴゼ」は、鬼や妖怪を意味するのですが、元興寺には、鐘楼に鬼が現れたという伝説があるのです。
平安時代に書かれた仏教説話集「日本霊異記」に、道場法師の鬼退治説話として登場します。
敏達天皇の時代、ある農夫が畑仕事をしていると、激しい雷雨に見舞われました。
木の下で雨宿りをしていると、その木に雷が落ちてきて、木の割れ目に子供姿の雷神が挟まっていたのです。
農夫は雷神を捕まえ、今後決していたずらをしないことを約束させて、解放してあげました。
雷神は御礼に、力の強い子を授けると言って、再び天に帰っていったのです。
数ヵ月後、農夫は子供を授かります。
雷の申し子であるその子は、成長するに従って怪力を持つようになりました。
ある時、元興寺の鐘楼に、人食い鬼が出るという噂が広がりました。
童子はその鬼退治を願い出るのです。
真夜中、童子は現れた鬼と戦うのですが、なかなか勝負がつかず、ついには夜明けになってしまいました。
鬼は頭髪を引き剥がされながらも逃げ出し、童子はその後を追ったのですが、鐘楼から北東の
この童子は元興寺の僧侶となり、道場法師となったのです。
この鬼を見失った場所は、今まで見えていた鬼の姿が見えなくなったので不審に思ったことから
奈良ホテルの近くなのですが、この鬼は、奈良ホテルの建っている場所にあった鬼棲山に棲んでいたのだそうです。
剥ぎ取った鬼の髪は、元興寺の寺宝になったのだそうですが、時の流れで失ってしまい、現在には伝わっていないそうです。
しかし、鬼と戦った時の爪痕が梵鐘に残っています。
その梵鐘は現在、元興寺から徒歩20分くらいのところにある新薬師寺の鐘楼にかかっています。
ところで鬼の正体ですが、いくつか説があります。
1つは、仏教に反対して蘇我氏に滅ぼされた物部氏の怨霊説。
1つは、大化の改新で殺された蘇我入鹿の怨霊説。
1つは、ある長者のもとに忍び込んで捕まってしまい、処刑された盗賊説。
色々ありますが、いずれにしても負のオーラですね。
道場法師の実在性は定かではありませんが、元興寺では道場法師のことを「農耕を助け、鬼を退治し、仏法を興隆した鬼神の象徴」と考えています。
絵馬に描かれた鬼は、退治した鬼ではなく、道場法師を神格化して鬼を超える鬼神
それが
淀君の怨念が福を呼ぶ?不思議な蛙石伝説
本堂の北側、すぐのところにこのような石が置かれています。
礎石と同じくらいの大きさなのに、一つだけぽつんと置かれていて、形は礎石とは違う感じです。
これは礎石ではなく、蛙石と呼ばれているもの。
よく見るとカエルみたいですね^^
横にカエルの置物も置かれていて、浄財入れも設置されていて、福を呼ぶカエルとなっていますが、元々の由来はちょっと怖いものなんです^^;
この石はもともと、大阪の河原にあったもので、秀吉が気に入られて大阪城内に移されました。
大阪城が落城した後は、お堀の端の
しかしそれから、不思議なことが起こります。
蛙石から入水しようとする人が続いたり、大阪城の堀に身投げするとその遺体はすべて蛙石のもとに流れ着いたりしたのだそうです。
昭和15年には、蛙石付近で堀に転落した人が救助されたのですが、その人は、
「蛙石に腰かけてスケッチをしていたら、十二単の女性が現れ、扇子をあげて導くので、ついていったところ堀に転落した」
というのです。
実はこの石の下には、淀君の亡骸を埋められていたという説があるんです。
蛙石には淀君の念が憑いている、とのうわさも流れたんですね。
第二次世界大戦の時、大阪城には陸軍司令部がありました。
司令部は蛙石の噂を良しとせず、石は撤去されたので、長らく行方不明になっていました。
それが昭和32年、大阪市内で発見され、発見者の知人であった元興寺の住職は供養を頼まれ、元興寺の境内に置かれることになったわけです。
元興寺に来てからの蛙石は不吉なことを起こすこともなく、供養も受けて極楽カエルに成就したのだそうです。
今では「無事かえる」「福かえる」と、福を授けてくれるカエルになっています^^
元興寺を参拝したら、本堂の北側の一角にあるこの石もお参りしてみてください。
小さいのに繊細!国宝の五重小塔
極楽堂の南側には、総合収蔵庫があります。
ここには、元興寺に伝わる仏像や庶民信仰関連の資料などが展示されていますが、一番の目玉は奈良時代当時からある五重小塔(国宝)です。
小塔といっても、5.5mもの大きさ。
入り口入ってすぐのところにそびえ立っています。
元興寺には江戸時代後期まで50mを超える五重大塔があったので、この小塔はひな型の為に作られたのではないか?という説があったのですが、五重大塔礎石の測量調査によると、寸法や高さの比率が、小塔とは全く違ったのだとか。
では何のために作ったのか?というのは、直接的な資料がないため、謎のまんまなのです。
近くで見ると、その大きさにも圧倒されるのですが、瓦や組物も精密に表現されているんです!
非常に細かい手仕事で、手抜きが一切ないんですよね^^
これは必見です!
また、収蔵庫には他にも板絵の智光曼荼羅がありますが、こちらは秋季特別展期間中に特別公開されます。
元興寺の御朱印
元興寺にはいくつか御朱印があります。
- 御本尊「智光曼荼羅」
- 西国四十九薬師霊場第5番「瑠璃光」
- 大和北部八十八ヶ所霊場第9番「阿弥陀如来」
- 大和地蔵十福霊場「印相地蔵」
です。
私はそのうち2つ頂きました。
まずは御本尊、智光曼荼羅の御朱印です。
西国四十九薬師霊場の御朱印です。
霊場専用の御朱印です。
南都七大寺の御朱印があっても良さそうなのですが、そういうものは今のところないみたいですね^^;
元興寺は、東大寺に次ぐ大寺となるほど繁栄しながらも、時勢の変化で衰退していくのですが、ただの衰退ではなく、無住のお寺となってしまったこともあるのです。
妖怪でも住んでいるのではないかと言われるほど荒れ果てていたのですが、そこに新しく住職さんが来られたのは戦後の話。
今でこそ世界遺産にも登録されてきれいに整備されていますが、それほど荒廃していたことが信じられないですね^^;