法性山 般若寺は、東大寺の転害門から北に向かい、奈良と京都を結ぶ道の要となっていた「奈良坂」を登ったところにある、真言律宗のお寺です。
御本尊は文殊菩薩。
通称「コスモス寺」と呼ばれ、10月~11月上旬にはコスモスが見頃を迎えます。
コスモスが咲く頃の様子⇒コスモス寺で有名な般若寺のコスモスを見に行きました。
コスモス以外にも、4月にヤマブキ、6月にアジサイ、1月~2月にスイセンが咲くようで、まさに花のお寺ですね^^
創建は飛鳥時代(629年)、高句麗の僧・
その時、「大般若経」六百巻を埋め、そこに卒塔婆を建てたので、「般若寺」と名付けられました。
今はそんなに広いお寺ではありませんが、元々二階建の大きな文殊堂のほか、講堂や食堂、弥勒堂や観音堂、七重塔、南大門等も備えた大きなお寺だったようです。
多くの僧が集まり、平安時代には1,000人を超えて学問寺として栄えました。
しかし、平家の南都攻め、戦国時代の東大寺大仏殿の戦い、廃仏毀釈などで廃寺の危機に陥りましたが、その度に再興して今も残っている、歴史あるお寺です。
宝物が多数収蔵された十三重石宝塔
般若寺で一番代表的なものといったらこの、十三重石宝塔(重文)でしょう。
総高14.2m、日本最大の石塔なんです。
この塔の最初の段には、見えにくいですが四面に四方仏が描かれています。
四方仏には色々ありますが、ここでは西に阿弥陀、東に薬師、南に釈迦、北に弥勒が描かれています。
この石塔の下に聖武天皇が「大般若経」を納めたのがお寺の始まりですが、その他にも仏像や水晶などが納められていたんです。
それらは大地震の時や石塔の大修理の時に発見されたそうです。
中でも1964年の大修理で塔の5重軸石から800年ぶりに発見された白鳳阿弥陀如来は、聖武天皇の祖父母、持統天皇の念持仏だった霊像とされ、般若寺本堂裏にある宝蔵堂に保管されています。
普段は秘仏とされていますが、毎年春と秋に特別公開されます。
ちょうどその期間だったので拝観させていただきましたが、40cmほどの小さな仏像で、施無畏印・与願印を示している手が、体との比率が普通より大きくて、不思議な感じがしました^^
そして、親切にも小さなライトや虫メガネを用意していて、貴重な仏像の細かいところまで見せてくれます♪
さすがに写真はダメですが、仏像は暗くて見えにくいことも多いので、ありがたいですね^^
白鳳阿弥陀如来は、ボタンひとつで回転する回転テーブルに乗せられていて、背面も見ることができます。
宝蔵堂ではその他にも、白鳳阿弥陀如来から出てきた胎内仏三尊、神宮皇后の絵馬、雨宝童子(大日如来と天照大神が習合した神像)、菅原天神、青銅相輪、かつて南大門に掛けられていた嵯峨天皇の勅額なども拝観できます。
南都を焼き打ちした平重衡
般若寺の境内には供養塔がちらほらあります。
その中の一つ、楼門の前にこんな人の供養塔が・・・
平家の南都焼き討ちで、東大寺、興福寺を火の海にした
重衡の兵火で、堂塔伽藍が全て焼き尽くされたんですね。
しかも、平家物語によると、火を放ったのはこの般若寺だったようです。
(般若寺近くの民家だったという説もあります)
とはいえ、そもそも風にあおられて火が広がったそうで、そもそもそこまで焼きつくそうとは思っていなかったようですが、結果として兵火は東大寺・興福寺の方まで広がっていったわけです。
南都の僧や住民からみたら重衡は悪ですよね^^;
でも、きちんと供養塔が建っているのにちょっと驚きました^^
平家が滅亡したあと、南都の僧が、源氏側に軟禁されている重衡の引き渡しを強く要求します。
しかし、生きて奈良の町に入れるのは嫌なので、木津川畔で斬首され、般若寺の門前でさらし首にされたんです。
般若寺にはもう1つ、かつて重衡と関係があるとみられている笠塔婆(重文)があります。
この笠塔婆は、宋人で伊行吉が父の一周忌に追善供養として建てたものであることが判明していますが、かつては重衡の供養塔として考えられていた時代があったようです。
その証拠に、能の古曲に「笠塔婆」という題材があって、その中で重衡の亡霊が登場するんですね。
なぜそう考えられていたのか?というと、この笠塔婆は、かつて存在した般若寺の入口、南大門の脇門の前にあって、笠塔婆に面している通りは奈良と京都をつなぐ京街道。
当時としては大通りだったでしょう。
そして笠塔婆自体は、奈良の共同墓地の入口に建っていたんです。
(ちなみに、南大門がかつてあったとされる場所は、今も墓地になっています。)
ということは?般若寺の門前でさらし首にされたという話となんとなく場所が重なります><
個人的には、この笠塔婆にさらし首にされたので、重衡の供養塔だとか、幽霊がでるという話が出てきたのではないか?と思っています。
事実はどうか分かりませんけどね^^;
般若寺の楼門は、国宝にも指定されている回廊建築の傑作
般若寺の入口近くに建つのが楼門。
楼門としては日本最古のもので、国宝です^^
この門、西側に向いて立っています。
この時代は南側に門があって、本堂が真ん中にある、というのが一般的ですが、ここは西側が正門。
先ほど話で触れたように、南大門はあったのですが、明治の廃仏毀釈などで寺の規模が縮小、そして今では住宅街になっているので、ここが正門のようにみえるんですね。
なので、楼門から中を覗いても本堂はなく、十三重塔が見えます。
でも、コスモスの時期に見えると、キレイです♪
この門は鎌倉時代のもので、楼門回廊建築の傑作と言われています。
ただ、今は出入りの門ではなく鑑賞のための門になっていて、境内は門の下まではいけるのですが、外には出られないので近すぎて全体がよく見えないんです^^;
行きか帰りに境内の外、道路側から忘れずに見学することおすすめします。
元々二階建だったらしい本堂
コスモスに囲まれた花のお寺らしい本堂。
御本尊の文殊菩薩や不動明王などが祀られています。
残念ながら写真は撮影できないのでここには載せられませんが、この2体、個人的にはものすごくカッコよく感じます^^
不動明王の後ろの炎の光背は面ではなく立体的になっていて、横から見ると風に吹かれているようになっています。
文殊菩薩も、真ん中で良い感じにライトアップされているんです^^
文殊菩薩の方は、このライトアップで魅力が上手く引き出されています。
どちらも間近で見れるのも嬉しいところです♪
般若寺では現在も文殊菩薩が御本尊ですが、昔はもっと大きな丈六(1丈6尺。約4.85メートル)の大きさだったとか。
学問寺として栄えていたのがわかりますね。
それが戦乱の時に丈六の文殊菩薩は失ってしまい、現在の大きさのものになっているようです。
でも、目立ちませんが本堂横には唯一、丈六文殊菩薩が乗っていた塑像の獅子が踏んでいたとされる直径1mの蓮華石が残っています。
私は最初、植物が伸びすぎていてどれが蓮華石なのかわかりませんでした^^;
説明の看板の真後ろに植物が伸び伸びしている下の石がそれです。
これだけ生い茂っていると、どんな感じで踏んでいたのか想像しにくいですね^^;
また、文殊菩薩ではないですが、丈六文殊菩薩の脇侍の仏像の太刀と手首が欠け仏として残っていて、宝蔵堂の秘仏、白鳳阿弥陀如来が拝観できる時に一緒に見学できます。
手首を見ればその大きさがよくわかりやすいですが、丈六の大きさがかなり大きいのが改めてよくわかります^^
境内に散在する石塔部材群
般若寺の境内には、あちこちに石仏が立っています。
一番目立つのは、西国三十三ヵ所の観音様の石像群ですね。
釈迦如来や相輪などもあります。
また、光明真言に由来し、運気上昇の霊験があるとされる「まかばら石」や、不動明王が乗っていて健康増進の霊験があるという「かんまん石」というものもあります。
こういう、石仏や石塔などが多いのは、戦国時代に般若寺近くにあった、多聞山城が関係しています。
多聞山城が廃城となった後、その跡に建った住宅地から寺に奉納されたものだとか。
多聞山城というのは、松永弾正でも知られる戦国時代の武将、
それが、織田信長と戦って敗れ、城は打ち壊しになったんです。
多聞山城が今見れないのは残念ですが、コスモスと一緒に立っている石像もなかなか風情があって良いですね^^
ご利益も頂ける石も忘れずに参拝しました♪
般若寺の御朱印
般若寺は、
- 西国四十九薬師霊場 第三番
- 関西花の寺霊場 第十七番
- 大和北部八十八ヶ所霊場 第十五番
などの札所でもあります。
私は西国四十九薬師霊場を集めているので、そちらだけ頂きました。
般若寺には、コスモスと十三重塔がデザインされたオリジナルの御朱印帳や、花の寺霊場巡り専用の御朱印帳も販売されていました。
般若寺は、国宝や重要文化財もあるのに家族経営で行っているそうです。
維持が大変そうですね^^;
楼門の修理もしたいそうで、募金をしていました。
行かれる方はぜひ募金してあげて下さい^^
般若寺の楼門の前には、植村牧場という牧場があって、採れたてのミルクから作ったソフトクリームなどが食べられますよ^^
結構美味しいです♪