以前紹介した長浜市高月町の保延寺地区のお隣に「雨森(あめのもり)」という地区があります。
高時川を渡る橋に続く通りを挟んで保延寺地区と雨森地区に分かれるのですが、「己高山観音寺」は保延寺から雨森に入ってすぐのところにあります。
通称「蔵座寺」または「雨森観音寺」と呼ばれています。

近江国湖北四家の一つとして知られる雨森氏の菩提寺です。
江戸時代の儒学者、雨森芳洲はこの末裔です。

雨森観音寺は、延暦年中(782~806年)伝教大師 最澄の草創で、かつては七堂伽藍が建ち並び、栄えたこともあるそうです。
それが現在は上のお堂のみとなっています。
(お堂の周りを支えている柱は、雪よけのビニールシートをかけるためのものです^^)

戦国時代となる天正元年、織田信長 VS 浅井・朝倉の戦いの1つ雨森磧合戦で、このお寺は天台宗という理由で織田方に焼き放たれてしまいました。
だから今となっては七堂伽藍があった頃の繁栄の跡もないんですね。

ご本尊はその時、越前の地に難を逃れていて、後で無事に帰ってきたのだそうですが、明治12年の火事では焼失してしまったのだそうです。
現在のご本尊は村人が比叡山から勧請(お連れした)もの。
こちらがそのご本尊。

雨森観音寺 千手観音

像高27cm、寄木作り、玉眼、漆箔仕上げの千手観音です。
脇手の一対を頭上に高く上げ、その手に小さな座仏を乗せているのが特徴で、清水寺式と呼ばれています。

脇侍として不動明王(像高53cm、寄木作り、天地眼、極彩色)と毘沙門天(像高51cm、寄木作り、玉眼、古色)が安置されていました。

雨森観音寺 不動明王

雨森観音寺 毘沙門天

脇侍はどちらもご本尊と一緒に比叡山から連れてこられた仏像です。
毘沙門天だけは見えにくいですね。
厨子が光を防ぐので、肉眼でもちょっと見えにくかったです。

それにしても千手観音にこの脇侍。不思議な組み合わせですね。

不動明王は、天台宗ではご本尊として、真言宗では大日如来の脇侍として祀られていることが多いように思えます。
毘沙門天も、独尊として祀られているか、四天王のうち、北を守る多聞天として祀られているかのどちらかだと思います。

説明によると、この三尊の組み合わせは天台宗特有の古い構成なのだとか。
なぜこの三尊だったのかはわかりません。
今度比叡山に行った時にでも聞いてみようと思います^^;

未だ謎となっている己高山で繁栄したお寺との関わり

雨森地区の東側には高時川があり、それを渡ってさらに東へ進むと己高山にたどり着きます。
己高山はかつて仏教文化が栄え、そこには己高山五箇寺とよばれたお寺があったそうです。

  • 法華寺
  • 石道寺
  • 観音寺
  • 高尾寺
  • 安楽寺

の五箇寺で、観音寺には飯福寺、鶏足寺、円満寺などの別院もあったのだとか。

これらのお寺は今の己高山には残っておらず、どんな本尊が祀られていたのか、いつ消滅したのかも未だわかっていません。
五箇寺の存在を記したものも「興福寺官務牒疏」という書物にしか載っていないようです。
(己高山は当初、奈良の興福寺の寺領だったそうです。)

なので、知られているのは、そういうお寺があったらしい、ということだけ。

己高山観音寺は山頂付近にあったそうですし、別院も持っています。
そして、室町時代には大寺院となっていた鶏足寺も元は観音寺の別院であったわけですから、観音寺はかなりの大寺だったのでしょう。

雨森観音寺も正式名称は「己高山観音寺」となっていますが、山頂にあった己高山観音寺とどういう繋がりがあるのか、分かっていないんです。
まったく同じ名前なので、何らかの繋がりはあるのでしょうけれどもね^^;

御朱印

雨森観音寺の御朱印です。

雨森観音寺 御朱印

高月のお寺は無住が多く、集落で守っているところが多いこともあってか、御朱印はスタンプのところが多いのですが、こちらはキレイに手書きしてくれました。

ただ、「よそはスタンプらしいで~」と身内で話していたので、いつかはスタンプになるのかもしれません^^;
「手書きの方がいいですよ~」とは言っておきましたけどね(≧▽≦)