円満寺 日吉神社

高月町の井口地区は、高時川から引いてきた水を調節する井堰(いせき)に位置しており、重要な場所でした。
そのような役目から、この場所は井口(いのくち)と呼ばれるようになったのですが、そこの日吉神社の境内にあるのが己高山(ここうざん) 円満寺(えんまんじ)です。

己高山の山頂にあった己高山のナンバーワンである「観音寺」の別院で、「己高山縁起」によると、己高山の有力7寺院「惣山之七箇寺(そうざんのしちかじ)」の一つとされるほど名刹だったようです。

奈良時代にこのあたりでは、東にそびえる己高山(こだかみやま)を中心に仏教文化が花開いていたのですが、次第に衰退します。
平安時代になって伝教大師・最澄によって再興、平安・鎌倉時代には一大仏教文化圏が形成されました。

円満寺の草創は詳しくはわかっていませんが、奈良時代には「富永庄」という荘園が成立していたと考えられ、その広さは高月町全域と木之本町南部一帯というかなりの広さ。

井口はその中心となる場所で、円満寺は富永庄の預所として重要な位置を占めていました。
庄務全般を司っていたようなので、その頃には草創されていたと考えられています。

そして、このあたりの用水井堰を統括管理していた一族は井口氏
近江守護職をしていた佐々木氏や、そのあとに頭角を現した浅井氏と関係の深い一族です。

一説には、元々は佐々木氏の一族で「東条氏」と称していたそうで、神社勧請創立と井口氏の誕生について、こんな話があります。
話は一部省略して、わかりやすい形にしました^^

文永七年(1270年)、蒲生郡渡江淵に大蛇が現れ、毎晩人や家畜に被害をもたらしていました。
時の近江国主、佐々木頼綱は、大蛇退治の命を東条経方に与え、経方はこの大蛇を倒します。

その霊を、国中の井頭に神霊(井口大明神)を祀らせました。

経方はその際、井口大明神を祀る氏子となって、井口姓を名乗るようになりました。
その際、高時川預かり(井預かり)の役を命じられ、代々高時川用水井堰を統括するようになったのです。

そして、用水井口を守護するために創立したのが井口日吉神社です。

「富永庄」の本所である延暦寺の守護神「坂本日吉神社」の分霊を勧請し、新日吉(いまひえ)井口山王権現(いのくちさんのうごんげん)とも称されました。

このような伝承があることから、井口日吉神社の神宮寺であった円満寺も、井口氏と深い関係があるようです。

しかしこの地は、たび重なる戦乱があったので、他のお寺と同様、円満寺所有のものは色々と焼失しています。
かつての繁栄が見られないくらい残っていないわけですから、このあたりの戦乱は特に激しかったことでしょうね。

境内には県指定有形文化財に指定されている日吉神社本殿があります。

円満寺 日吉神社

元文三年(1738年)、江戸時代中期に再建されたもの。

その井口日吉神社を管理する神宮寺であった円満寺は、この社殿のお隣に小さな阿弥陀堂があるだけです。

己高山 円満寺

この阿弥陀堂は、元禄二年(1689年)、江戸時代に建てられたもの。
後から建てられたのに小さいですね^^;

戦乱後は宗派から離れて無住寺院となったそうですから、影響力がなくなったのでしょうね。
現在は日吉大社の所属として、井口区民全体で守られています。

堂内に安置されている仏像は、御本尊の阿弥陀如来立像、そして十一面観音菩薩立像と地蔵菩薩坐像です。

こちらは御本尊の阿弥陀如来。

円満寺 阿弥陀如来

そして十一面観音と地蔵菩薩。

円満寺 十地面観音 地蔵菩薩

作風からして、鎌倉以前のものではなさそうですね。

あと、神仏習合のシンボル「日吉山王二十一社本地仏」が安置されていたのですが、こちらは「高月観音の里 歴史民俗資料館」で展示されていました。
本物がないので、ここでは写真だけ飾られていました。

日吉山王二十一社本地仏

日吉山王二十一社本地仏

まさにこれこそが、井口氏やこのあたりの水利に関する歴史を語る仏像ではないでしょうか?

歴史民俗資料館ならいつでも見れますが、できればこの場で見たかったですね^^;

御朱印

円満寺の御朱印です。

円満寺 御朱印