比叡山は大きく「東塔」「西塔」「横川」という3つのエリアにわかれます。
今回は比叡山最奥の地「
東塔、西塔についてはこちらに書きました。
比叡山は平安京の都から北東の位置、鬼門の方向にあります。
平安京の鬼門封じの役割を果たしているのです。
そんな比叡山の中で横川は最北西にあるので、まさに鬼門中の鬼門なのです。
東塔や西塔よりも自然が濃厚で、森閑としたたたずまいを感じます。
そして横川は、歴史に残る高僧が何人も育ったゆかりの地。
最澄の直弟子だった慈覚大師 円仁をはじめ、最澄の再来と言われた慈恵大師 良源、地獄の概念を形にした恵心僧都 源信、曹洞宗の開祖 道元禅師、日蓮宗の開祖 日蓮上人など、日本を代表する高僧が多く関わっているのです。
そんな高僧たちに注目すると、横川は見どころがたくさんありますよ^^
横川へのアクセス
横川は比叡山の中でも奥まったところにあるので、東塔と比べてアクセスが少し面倒です。
比叡山までの行き方や料金は、お得な方法なども含めて別記事に書きました。
公共交通機関で行く場合と、マイカーで行く場合に分けましたので、参考にしてみてください。
ここでは、アクセスの際の注意事項に触れておきたいと思います。
【電車・バスで訪れる場合】
ケーブルは東塔方面にしか出ていないので、東塔に到着します。
東塔から横川へはシャトルバス(有料)に乗れば15分で到着です。
徒歩でも行けますが、100分以上かかるので大変です><
比叡山は参拝するだけでも1日がかりになるほど広いですので、歩くことが目的でない限りはシャトルバスを利用した方が良いと思います。
ただし、シャトルバスは冬季期間は運休しますので要注意。
運行期間は3月20日~12月4日までとなっていますが、年によって期間が前後します。
【車で訪れる場合】
東塔・西塔・横川は、比叡山ドライブウェイで繋がっていますので、アクセスの利便性は東塔へ行く場合とあまり変わりません。
でも、料金的には雄琴方面の「仰木料金所」から入った方が安いです。
京都方面の「田の谷峠料金所」から入った場合、普通自動車で700円も差があります。
「仰木料金所」から入れば、西塔までは料金変わらず入山できます。
なので西塔・横川だけに行きたい場合は、仰木料金所からドライブウェイに入った方が良いですね。
比叡山には、アクセス方法によって、お得なチケットが用意されています。
期間限定のものもありますので、訪れる前に必ずチェックしておきたいところです。
上で紹介した別記事にも情報を載せましたので参考にしてみてください。
横川に隠棲した「慈覚大師 円仁」
比叡山の中心地となる東塔と西塔の距離はわりと近いのですが、横川は西塔から約4キロも離れています。
そんな横川の地を隠棲の地として選んだのが、慈覚大師
円仁は最澄の直弟子。
師匠である「最澄」、弟弟子の「円珍」と共に「天台三聖」の一人として称されています。
円仁は、遣唐使として唐に渡って密教を学び、最澄の時代には不完全だった天台密教を充実させました。
最澄も遣唐使として入唐し、本場の天台山で学んで、日本に多くの新知識をもたらしたのですが、そもそも最初から短期留学の予定だったために、密教についてはマスターしないままに帰らなければならなかったのです。
そのために天台教学に不完全さが生まれ、真言密教に後れをとったのですが、後に円仁が唐で学び、天台教学を充実させることに成功しました。
この活躍からアクティブな人物像を思い描けそうですが、横川に隠棲したのは、実は唐に渡る前の話なんです^^;
円仁は、唐に行く前の40歳ごろ、失明寸前になるまでに体調を崩したことがあります。
(実際に亡くなったのは70歳頃。入唐したのは45歳頃です)
その時、円仁は横川に入り、小さなお堂を建てました。
それが横川の始まりです。
円仁は死を覚悟しながら修行を続けたのですが、なんと修行をしているうちに元気になってしまったのです^^
その後、遣唐使船に乗るのですが、その時に壮絶な旅を経験しています。
船の難破は何度も経験していますし、海賊に襲われたこともあります。
唐についてからも苦労は続きます。
なかなか目的の天台山への入山が許可されず、帰国命令まで出されていたんですね。
それでも円仁は諦めずに何度も唐の役人を説得しました。
天台山以外にも学べるところに出向いては学び、最終的には密教を中心とする中国仏教の最高峰を学びとったといいます。
円仁は9年半にわたって唐で学んだのですが、その頃に即位した皇帝が、仏教を嫌い道教を支持するようになります。
ついには大規模な仏教弾圧「会昌の破仏」へと発展してしまいました。
唐の仏教界は、大都市の数寺を残すのみの大打撃を受けたのですが、円仁はなんとか命からがら日本へ逃げ帰ることができました。
円仁がいた時代は、航海技術がそんなに発達していなかったので、難破するのも珍しくない時代です。
そんな時代にきちんと唐にわたり、危険な目に会いながらもたくさんのことを学び、日本に持ち帰ることができたのは奇跡的ですね^^
円仁は、それができたのは観音様が助けてくれたからだ、と言っています。
円仁の帰山後に建てた、横川の中心的お堂「横川中堂」は、観音様をお祀りするために建てたお堂です。
遣唐使船がモデルになっている横川中堂
こちらが横川の中心的お堂「横川中堂」。
円仁が最初に建てた草庵の場所に建てられています。
横川中堂は、平面に建てられたお堂ではありません。
崖や斜面になっているところに、長い束柱を立ててお堂を支えているのです。
これを「舞台造り」(懸造りとも呼ばれる)といいます。
清水寺の「清水の舞台」も同じ技法を用いています。
本来は崖や斜面しかない場所にお堂を建てたいときに用いる技法ですが、横川中堂では、わざわざ2メートルほどある高低差のところを選んでいます。
その理由は、遣唐使船をモデルにしているからなのだとか。
全体的に浮かんで見えるような雰囲気を出しているわけです。
別の角度から見ると、なんとなく地面を波に例えてお堂が波の上を進んでいくようにも見えます^^
(眉をひそめて想像力を発揮して下さい^^;)
横川中堂の本尊は、円仁作とされる聖観音菩薩。
一緒に毘沙門天と不動明王も祀られていました。
延暦寺は信長の焼き討ちにもあっていますし、横川中堂は昭和17年に雷火で焼失したりしたこともあるのですが、本尊はなんとか災禍から免れているのだそうです。
外陣から拝むことができるのですが、肉眼で見るにはちょっと遠かったです^^;
横川中堂の入り口には「護法石」が置かれています。
これは比叡山の守護神、鹿島明神と赤山明神が降臨するときに宿られたという石です。
木が無造作に生い茂っているのは気になりますが、何か意味があるのでしょうか?わかりません^^;
赤山明神は、円仁が唐から帰国する時、難破しそうになった船の舳先に立って守護してくれた神様です。
まるで今も見守っているようですね^^
すぐ近くには赤山宮もありました。
赤山明神は円仁が唐からもたらして広まったわけですが、信仰の中心地のそばにこのように置いているところを見ると、よほど頼りにしていたのでしょう。
延暦寺では赤山明神は、比叡山東麓の守護神「日吉山王」(日吉大社の神様)に対して、比叡山西麓の守護神、という位置づけにしています。
比叡山西麓(京都側)に赤山禅院というお寺があるのはそのためです。
円仁が著した法華経を納める根本如法塔
横川に隠棲した円仁は、毎日座禅に励み、礼拝をしては法華経を書写するなどして過ごしているうちに、体力を回復していきました。
その時書写した経文を納めるために建てたのが根本如法塔です。
横川中堂の裏側、道を挟んで向こう側の階段を上るとあります。
その時の円仁の写経の仕方ですが、ただ書いただけではありません。
私たちが想像する写経とは一味違う念が込められているんですよ。
なんとすべての文字に対して「一字三礼」で書いていくのです!
それは、1文字書く毎に、3度も礼拝するというもの。
しかも礼拝は、ただ手を合わせるだけではありません。
両手・両膝・額を伏せる「五体投地」というやり方なのです。
円仁はそのやり方で7万文字も書いたといいます。
約3年の月日をかけたそうですが、ものすごい精神力ですね。
この修行を「如法写経」というのですが、今は毎月8月初旬に行われ、千年以上続けられています。
それらの写経は、つぼなどに入れられ、地中に埋められてきたのです。
そのようなことから、「横川は何処を掘っても写経壺が出る」と言われるような写経の聖地になっているんですね。
現在の根本如法塔はは大正14年に建てられたもので、釈迦如来・多宝如来が祀られ、数々の仏教経典が書写された経文が納められています。
横川中堂では写経体験も行われていますが、このような由来のある場所で写経をすると、格別な体験になりそうですね^^
最澄の再来!比叡山のカリスマ「慈恵大師 良源」
※写真:大津市歴史博物館 慈恵大師1025年遠忌記念企画展 元三大師良源-比叡山中興の祖-より(木造慈恵大師坐像 南北朝~室町時代 滋賀県湖南市・善水寺蔵)
横川を開いたのは円仁ですが、横川の名前を上げたのは「慈恵大師 良源」です。
上の写真は、良源の特徴をよく捉えているといわれる坐像。
良源の坐像が伝わるお寺はたくさんあるのですが、どれも強面に作られているんですよね^^;
見た目は怖いけど、比叡山ではスーパーヒーロー。
円仁が横川を開いてから約100年後、最澄の再来ともされたカリスマ的僧侶なんです。
横川からはたくさんの高僧が誕生していますが、それは良源がその基盤を作ったからです。
弟子は3,000人もいたともいわれているんですね。
比叡山は承平五年(935)に火事で多くの諸堂を失なっているのですが、そこからなかなか復興できませんでした。
その間に荒廃してしまったのですが、良源はそんな状態から立ち上げ直すわけです。
良源は今まで密教に偏り気味だった天台宗を、最澄が目指していた方向性、つまり「人は誰でも仏になれる」という「天台本覚思想」を体系立てました。
そして、自らが住房としていた「定心坊」で、春夏秋冬の指揮に法華経の論議を行うようになり、四季講堂と呼ばれるようになります。
ここに全国から学僧が集まっては論議を戦わせ、学問を深めていきました。
このようにして比叡山は復興し、それどころか全盛期といえるほどまでになったんです。
まさに良源はスーパーヒーローなんですね^^
良源信仰の総本山 元三大師堂
上の写真は、四季講堂の入り口です。
別名「元三大師堂」とよばれています。
良源は一月三日に亡くなったのですが、そのことから「
元三大師を祀るお寺、つまり良源を信仰のより所とするお寺は全国にありますが、それはこの横川の元三大師堂から分布したものなので、ここは元三大師信仰の総本山ともいえる場所なのです。
境内に入ってすぐのところは、紅葉の季節に来るとなかなか綺麗です。
厄除け・息災祈願の根本道場としての元三大師堂
お堂には良源が「
とにかくパワーのある人物で、特に修験の霊力に優れていたようです。
なのでこのような伝説がいくつか語られているんですよね^^
「魔滅大師」という名前からもわかるように、魔を滅することができる力を持っていた、ということで、厄除け大師として有名なのです。
私は今回、角大師の護符を購入しました。
この護符の絵柄は、良源が魔を滅するために鬼の姿となった時、弟子が描き写した姿なのだとか。
他にも、鬼の姿をした「降魔大師」や、小さな元三大師が33人いらっしゃる「魔滅大師」、そして普通に坐して祈祷をされている「元三大師」など、お札の種類がたくさんありました。
どれにしようか迷ってしまいますね^^;
おみくじ発祥の地としての元三大師堂
良源は、実は日本におけるおみくじの生みの親でもあります。
良源は、人々を困難から救うことを記念した時に、観音様からその解決法を記された五言四句の偈文を100枚授かったそうです。
それがおみくじの起源になっています。
しかし、今のようにくじを引いて吉凶を占うようになったのは江戸時代になってからのこと。
元三大師堂では普通のおみくじとは違います。
発祥の地らしく、僧侶に占う内容を相談、さらに読経をしておみくじを引き、僧侶が古文書を調べながら本気で解決方法をアドバイスするのです。
なので受付の前には、ここのおみくじは気軽に申し込まないよう、注意書きがされていました。
人生の岐路に立たされている方におすすめしたいおみくじですね。
ここでおみくじを引こうと思っている方は、相談内容を明確にし、出た結果をしっかり受け止める覚悟で行きましょう^^
勇気がいりますね^^;
修行僧は大変!看勤地獄と呼ばれる元三大師堂での修行
私たち参拝者にはあまり関係ありませんが、このお堂での僧侶の生活は、無動寺谷の「回峯地獄」、浄土院の「掃除地獄」と共に、横川の「
これは、横川に属する寺院の住職が、元三大師に仕える執事として2~3年交代で1名勤めるのですが、それが大変なのです><
お寺では朝昼晩の勤行があるわけですが、その内容はかなり厳格らしく、しかもかなり時間かかるものなのだそうです。
良源は3000人も門弟を抱えるほどのパワーのある人だったのですが、弟子一人ひとりがレベルの高い僧侶となるように「論議」を重視していました。
そのため、勤行に自問自答の論議が多く用いられているわけです。
この勤行に慣れていない僧侶は、1日中読経していないと、1日分の勤行が消化できないのだとか。
しかし、1日中勤行に集中できるのか、というとそういうわけではありません。
昼間は私たちのような参拝客や信者もきますから、その相手をする必要も当然あります。
時には下山しなければならない用事があった場合、勤行から解放されるのかというと、そう甘くはありません。
留守にする分を前もって消化しておかなえればならないのです。
ではどうするのか?というと、早く消化できないものは睡眠時間を削ってやるしかないわけです。
毎日毎日それが続きます。
看勤地獄と呼ばれる所以です。
まさにブラック・・・・いや、修行して世のため人のために頑張っておられるわけですね^^;
比叡山三魔所の一つ、元三大師御廟
元三大師堂から北へ300メートルほど、横川中堂の北東にあたる部分に、良源の墓所である元三大師御廟があります。
周りには何もなく、崖に沿った道沿いにひっそりとあって、拝殿となっているシンプルなお堂が建っているだけの寂しい感じです。
しかしここは、比叡山三魔所の一つに数えられている場所なんです。
(残り二つは、東塔へ登る参道、本坂の道の途中にある「天梯権現祠」、もう一つは横川の飯室谷の端にある「慈忍和尚廟」。)
比叡山は京の都の北東、つまり「鬼門」の位置にあるわけですが、その鬼門の中でも横川は鬼門にあたります。
その横川の中でも鬼門に当たる場所に、この元三大師廟があるわけです。
良源は入滅するとき弟子たちに、立派な御廟を作らず亡骸を比叡山の鬼門に捨てるよう、遺言を残しました。
そして、墓は決して掃除するなと伝えたといいます。
良源は絶大な霊験を持っていたわけですから、比叡山を守り続けようとしたのかもしれません。
良源の墓所は正面に見えているお堂の裏側。
鳥居の奥にいくつか灯篭が立っていますが、その奥に墓所があります。
その墓石は、一般に見られるような名前の入った立派な墓石ではなく、まるでキノコのような形をしたシンプルな石柱でした。
その周りは雑草だらけで、確かに掃除はしていないような自然な雰囲気でした。
この墓石は、言い伝えによると、天下に異変があれば凄まじい音をたてるのだそうです。
ちょっと怖いですね^^;
元三大師と大蛇の伝説が伝わる、龍が池弁天
横川の拝観入り口から真っすぐ歩いていくと、横川中堂の裏手側にでます。
横川中堂が見えるところに差し掛かったところにあるのが「龍が池」です。
中央には「龍が池弁天」が祀られています。
実はこの池に、元三大師の大蛇退治の伝説が伝わっています。
昔、この池に大蛇が住み着き、修行僧の邪魔をしたり、麓の坂本や仰木に現れて人々を襲ったりしていました。
元三大師はこれを知り、大蛇に
「お前は神通力を持っているというが本当か?それなら大きな姿になってみよ」
と言いました。
すると大蛇は数十倍の大きさになりました。
「大変見事だ。では私の掌の中に入ることができるか?」
というと、大蛇は一寸足らずの蛇になりました。
大師はすかさず念力で閉じ込めてしまいました。
そして大蛇を諭し、弁天様をお招きして、弁天様の侍者としました。
それからはこの大蛇はこれまでの悪行を悔い改め、龍神として弁天様に仕えながら横川を訪れる人々の新願成就の助けをすることにしたのです。
ここを通ると参拝する前に立派な横川中堂が見えてしまうので、参拝せずにさっそうと横川中堂の方に向かってしまう人が多いです^^
せっかく霊験あらたかな弁天様と龍神様なので、お参りはしておきたいですね。
比叡山三弁天の一つ、箸塚弁財天
元三大師堂の前には、箸塚弁財天というシンプルな社があります。
これは、良源が千僧供養(千人の僧に供養すること)を行った際に使用した箸が埋められ、弁財天を祀った社です。
この弁天様は、無動寺弁天堂、西塔の蓑淵弁財天とあわせて、比叡山三弁天の1つに数えられています。
写真を見るとわかるのですが、社殿が真新しくなったばかりなんです。
そのため、実はいまだけ弁天様の像が元三大師堂の不動明王の横に置かれているのです!
元三大師堂の住職さんに伺った話なのですが、この工事のために元三大師堂に今だけ置いているのだそうです。
外に出したのは50年ぶりくらいなのだとか。
そんな貴重な弁天様を拝むことができる!と思ってお不動さんのところを探したのですが、暗くて見えません。
50cmくらいあるかどうかの厨子は見えたんですけどね^^;
「暗いので心眼で見てみてくださいね」と言われていたのですが、いつも持っている単眼鏡を使っても見えませんでした^^;
弁財天と言えば、琵琶を弾く妖艶な姿で七福神の一人となっているのですが、それは日本での話です。
こちらの弁財天は、インドからきた弁財天なのだそうで、6本の腕(8本だったかも?)があって、剣を持った姿なのだそうです。
目を凝らすと、剣の先のようなものも見えたような気もします(≧▽≦)
地獄や極楽の概念をもたらした「恵心僧都 源信」
横川中堂の正面から高台になっている方に向かうと、T字路の突き当りに鐘楼があります。
左に行くと元三大師堂、右に行くと「秘宝館」という建物があり、そこを過ぎたところに恵心堂があります。
「秘宝館」という名前は気になりますが、これは東塔の国宝殿ができる前に比叡山の寺宝を展示していた場所です。
今は東塔の国宝殿に移管していて、現在は使われていない建物になっています。
そして「南無阿弥陀仏」の石碑が立っているのが恵心堂の入り口。
紅葉がきれいな敷地の中に細い石畳が続きます。
その先にあるのが恵心堂です。
ここは、藤原兼家が元三大師のために建てたお堂です。
元三大師には約3000人もの門下生がいたのですが、その中でも四哲の一人とされるのが
源信はここに住んで念仏三昧の修行や執筆を行いました。
恵心堂に住んでいたことから、「
源信は、「往生要集」を著して日本の浄土教の基礎を築いた人物です。
往生要集の中で地獄や極楽がどのようなところであるかを説き、極楽浄土へ行くための念仏往生の思想とその実践方法を明確にしました。
特に地獄の様子は事細かに書かれ、それが今の日本人が思い描く地獄の様子に繋がっているんですね。
源信についてはこちら⇒奈良国立博物館で行われている特別展「源信-地獄・極楽への扉」を見に行きました。
恵心堂のある敷地は非常にひっそりとした空間です。
そういう中に小さなお堂が建っているわけです。
奥行きもありません。
源信が書いた往生要集は、法然や親鸞などに大きな影響を与えることになるのですが、それはこんな山奥で書かれていたわけですね^^
恵心堂の内部は非公開ですが、中には阿弥陀如来が祀られ、念仏三昧の道場になっているのだそうです。
比叡山で得度した、曹洞宗の開祖「道元禅師」
元三大師堂の入り口近く、恵心堂方面と元三大師御廟の分かれ道の所に、「道元禅師得度霊跡」と書かれた道標があります。
道元禅師は鎌倉時代の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖です。
「得度」というのは、僧侶になるための儀式のこと。
道標横の道を進むとその霊跡があります。
下り道になっていますが、そんなに遠くはありません^^
2、3分ほどで着きます。
石碑には、「承陽大師得度霊跡」と書かれています。
「承陽大師」というのは、明治12年に道元に贈られた諡号です。
道元は13歳の春に比叡山にのぼり、仏道を学びました。
その翌年にここで得度したんですね。
あたりはうっそうした森の中で他に何もありませんが、ここから道元禅師の仏道への探求が始まったわけです。
道元禅師の生涯については、こちらのDVDがおススメです。
私も最初はこのDVDを見て道元について学びました。
概要程度で、これだけで深く掘り下げることはできませんが、初心者が道元がどういう人なのか?禅とは何か?みたいなものを知るきっかけになると思います。
12年間住み込みで修行した「日蓮聖人」
箸塚弁財天の横から、天台宗修行道場の比叡山行院を過ぎて約10分の下り道。
200段ほどの階段ですが、この階段は段差はあまりないものの、全てが坂になっていて、なかなかきついです^^
帰りは上りになりますし、健脚の方にお勧めな道ですね。
10分ほど下ると、日蓮宗の宗祖、日蓮が22歳~33歳までの12年間を住坊として修行をしていた定光院にたどり着きます。
ここは日蓮聖人が生涯で一番多くの時間を過ごした場所なんです。
ここで日蓮宗という宗派を開くための礎を築いたことから、現在は日蓮宗の根本道場になっているようです。
広くはありませんが奥行きのある境内。
「日蓮聖人御使用の手水鉢」というのもありました。
境内の奥には、日蓮聖人の大きな銅像が建てられていました。
この銅像は大正14年に日蓮聖人生誕700年を記念して建てられたもので、牛で運ばれてきたのだとか^^
本堂の中心には日蓮聖人像が祀られていて、他にも三十番神像も祀られていました。
三十番神は、毎日交代で国家や国民を守護するという神様たち。
1日目は熱田神宮、2日目は諏訪大社・・・というように、全国の有名な神様が30日周期で見守ってくれるわけで、日蓮宗では重視されています。
ほとんどの神様は昔の貴族のような格好をしているのですが、中には元々の姿に特徴のある神様はそのお姿をしていました。
例えば、春日大社の春日大明神は、鹿の上にのる太陽のような丸い鏡の画像があります。
ここに祀られているのもそのお姿でした^^
他にも上賀茂神社の神様は「賀茂別雷大神」という雷神ですが、まさに雷様のお姿をしています。
細かく見るとその神様の特徴が出ていて興味深い神像でした。
私が本堂でお参りをしていると、お題目を唱えながら入ってくる信者さんがいたりして、比叡山の中なのに本当に日蓮宗の道場なんだなと、不思議な感覚でした^^
御朱印
比叡山には御朱印がたくさんありますが、横川だけでも5種類頂きました。
- 横川中堂
- 恵心堂
- 元三大師
- 箸塚弁財天
- 定光院
です。
まずは横川中堂の御朱印。
恵心堂の御朱印も横川中堂で頂きます。
元三大師の御朱印は元三大師堂で頂きます。
角大師の印が特徴的ですね^^
箸塚弁財天の御朱印は元三大師堂で頂きます。
最後に定光院の御朱印です。