滋賀県近江八幡市にある
この標高433mの山の中腹に、観音正寺があります。
「西国三十三所観音霊場」の第三十二番札所に指定されているお寺です。
聖徳太子が創建したお寺で、かつては「観音寺」と呼ばれていました。
鎌倉・室町時代には近江守護の六角氏が庇護、最盛期には三十三坊もの塔頭寺院があったそうです。
すぐそばには六角氏が築いたという、日本五大山城に数えられる巨大な山城「観音寺城」の跡もあります。
そんな観音正寺ですが、西国三十三ヶ所の中でも難所の一つといわれていました。
表参道にあたる石寺集落から上ると、なんと1200段もの石段を上る必要があります。
しかも整った石段ではないので、かなりきつい^^;
でも今は、山中に車でいけるルートができていますので安心です。
のこり450段くらいからスタートすることができ、ハードルはぐっと下がっています。
それでも私は、麓から正式なルートで行ってみようと思い、1200段の石段を上りました。
観音正寺にまつわる2つの創建話
観音正寺には、2つの創建話があります。
いずれにも聖徳太子が関わっています。
聖徳太子が修験の行場に創建した説
「観音正寺縁起」によると、観音正寺は推古天皇13年(605年)、聖徳太子が近江を訪れた時、繖山の頂上に修験の行場をみつけ、その岩窟に千手観音像を祀ったとあります。
この説はお寺の縁起に書かれていることから、観音正寺が正式に認めている説ですね。
創建の場所は、裏参道の途中にある「奥の院」なのだそうです。
私が気になっているのは、「修験の行場」ということ。
確かに、本堂の横には巨岩がごろごろ積み重なっていて、繖山は修験の行場としては最適なのかもしれません。
仏像も祀られていますので、実際に山伏が修行をしていたのでしょう。
ただ、修験が登場するのは、聖徳太子よりも後の時代なので、創建の理由に結びつかないんですよね。
繖山は太子以前から信仰の山で、原始的な磐座信仰が根付いていたといいます。
おそらく、平安時代あたりに太子信仰が盛り上がった時、同じく盛んになっていた山岳信仰と結びついてそういう話ができたのではないか?と思っています。
聖徳太子が人魚の願いで創建した説
もう一つの説は「聖徳太子が人魚に頼まれて創建した」というもの。
太子がこの地を訪れた時、近くを流れる愛知川のほとりで人魚と出会いました。
その人魚は、
「私は前世で漁師をしており、殺生を生業としていたため、このような姿になりました。繖山にお寺を建て、私を成仏させてください。」
と懇願するのです。
そこで太子は人魚の願いを聞き入れ、自ら千手観音像を刻んで祀り、堂塔を建立しました。
すると、人魚は天界に生まれ変わったのだそうです。
人魚の話もうそっぽいですが、実は本堂にはかつて、人魚のミイラなるものが祀られていたのだそうです。
残念ながら、平成5年(1993年)の火災で、重要文化財の御本尊とともに、人魚のミイラも焼失してしまったのだとか。
現在は写真で残るのみで、見せてもらったのですが、確かに人魚のような形をしていました。
写真なので臨場感がないのが残念でしたけどね^^;
日本書紀によると、推古天皇27年619年に「近江の国司が「蒲生川に人魚がいた」と言っている」という記述があるんです。
蒲生は東近江、近江八幡両市の一帯のことなので、おそらく蒲生川は今の愛知川にあたるのかもしれません。
そして蒲生地区周辺には人魚にまつわる伝説がいくつか残っています。
なかなかミステリーな話で面白いですね^^
観音正寺を隆盛させた六角氏と観音寺城
聖徳太子の話ともう一つ、観音正寺と切っても切り離せないのが近江国守護の佐々木六角氏との関係です。
観音正寺を代々庇護してきた一族で、塔頭寺院が増えるほどまでに発展させたんですね。
佐々木氏は宇多天皇の系譜を引く宇田源氏で、後に京の屋敷地の名前(六角東洞院)をとって、六角氏とよばれるようになります。
そして六角氏が次第に大きな力を持つようになると、観音寺の場所を山麓に移転し、その場所に観音寺城という、石垣が多数築かれた中世で全国最大級の規模の城を作り、そこを拠点とするようになります。
観音正寺が城として利用されたことを示す記録の初見は「太平記」にあり、建武二年(1335年)に佐々木氏頼が北畠顕家との戦いです。
それ以降は合戦時にしばしば観音正寺に陣が置かれたそうで、次第に整備された観音寺城になります。
そうなる中、巡礼に交じって敵のスパイがさぐりにくるかもしれない、ということで、お寺を山麓に移転します。
しかし観音正寺は、戦国末期に観音寺城とともに焼失したと伝えらています。
火災の契機は様々伝わっていて、被災したのが山麓移設の前か後かもわかっていません。
戦国末期に何があったのかというと、まずは永禄六年(1563)の六角氏のお家騒動、「観音寺騒動」です。
これによって六角氏は家臣の信頼を失い、弱体化します。
さらに追い打ちをかけるように、永禄十一年(1568年)に織田信長に攻められ、観音寺城を追われてしまうのです。
その辺りで火災にあったのかもしれませんね。
観音正寺は慶長二年(1597年)に再び山上に復興されています。
現在の観音正寺の境内は、観音寺城跡山上主要部の中央にあります。
足場の悪い1200段の石段!ふもとから続く表参道の道のり
西国三十三所の中でも難所の一つになっているのが、観音正寺の表参道です。
表参道は、観音寺山の南麓にある「石寺」という集落から始まります。
石寺はもともと「石寺」という寺院があったことに由来するそうですが、古くから観音寺山の南麓に広がる集落で、山上に観音寺城が整備されるにしたがって次第に城下町になった場所です。
日本で最初に楽市が開かれたとされているんですね。
しかし、永禄六年(1563)の観音寺騒動で、このあたりはかなり焼けてしまったとのこと。
そんな石寺の集落ですが、今では田んぼが広がるのどかな地域になっています。
そして、観音正寺へ向かう人々のための拠点となるのが、「石寺楽市」というお土産屋さん。
観音正寺へ上る場合は駐車料金が必要(300円)です。
生鮮野菜の直売所となっているようで、買い物をするなら午前中が良いようですね。
私が訪れたのは13時ごろだったのですが、ほぼ閉店状態でガラガラな様子でした^^;
そこから山の方へ向かう細い道が、観音正寺の参道になっています。
少しずつ上り坂になってくると、観音寺城の石垣の跡なのか、民家の塀も石垣になっています。
山の入り口にあるのは、観音正寺の守護神を祀る神社です。
観音正寺は天台系寺院なのですが、山麓に日吉社があるところは天台系らしいですね^^
日吉神社を過ぎてしばらく坂を上ると、石段が見えてきます。
石段は不揃いで、段が高い石段もあれば、低い石段もあり、一定のリズムではなかなか上らせてくれません。
こういう石段はなかなかきついんですよね。
でもこれが最後まで続くんです><
800段ほどあがると、山上駐車場にたどり着きます。
といっても、ここがゴールではありません。
あと440段あります^^;
車で来る人もそれくらいは上らないとだめなんですね。
それでもやっぱり800段は飛ばしているわけですから、ここで出会う人は元気です^^
なのでここから「さあ上るぞ!」という雰囲気を出している元気な人が羨ましいですが、下から上った方がより達成感が得られるはず!と自分に言い聞かせて上ります^^
ここから先は、番号がふられた格言のような言葉が手すりにぶら下げられていて、勇気づけられます。
格言の番号は頂上までのカウントダウン。
ゴールがはっきりすれば、頑張る力が湧いてきます。
「人間は逆境に鍛えられ、自信と確信が生まれる。」
「最も幸福な人はいつも行動している人である。」
「行き詰まりは環境のせいではない。自分の心の行き詰まりである。」
「楽なことを幸福と思っていては人生の深い喜びは味わえない。」
「安易な生活からは人生の貴重な体験は生まれない。」
こんな感じで格言に導かれるように上っていくと、いつの間にかゴールが見えてきます。
一の格言まできたらゴールです!
ちなみに一は、
「人の一生に厄年はない。躍進の「やく」と考えよ」
でした。
厄年で憂鬱になってはいけませんね^^
上りきったところからは、万葉集の歌にも詠まれた蒲生野の田園が広がっています。
ここから見る田園風景はなかなかきれいです。
もう少し天気が良いと、近江富士(三上山)も遠くに見えるようです。
こういう景色を見ると、上ってよかった~って思いますね^^
絶景が広がり続ける観音正寺境内
観音正寺の入り口には仁王さんが立っていらっしゃいます。
露天に立っている仁王さんは、西国三十三所 十二番札所の岩間寺と同じスタイル。
でもこちらの仁王さんは迫力のあるお姿で、日に当たると肉体美が際立っています。
ここから先は有料エリア。
入山料500円です。
境内はそれほど広くありません。
入り口から一番奥に見えるのが本堂で、そこまでの広さしかありません。
本堂までの道沿いには諸堂が立ち並んでいます。
一番奥に見えるのが本堂ですから、そんなに広くないのがわかります。
そして、道沿いの反対側は、安土・近江八幡・八日市方面を見下ろすパノラマビュー。
聖徳太子の像が、麓を見下ろす景色を背にして立っていました。
観音寺城の遺構とみられる、石垣も残っています。
入り口からはいってすぐのところにある書院。
こちらでは、西国三十三所巡礼を一番最初に広めようとした、徳道上人のアニメが流れていました。
おおむねの内容は奈良の法起院のところに書いていますが、こちらで流れていたビデオは子供でも分かるような簡単な内容で、西国巡礼を知らない人でもわかる内容になっていました。
こちらの一風変わった藁葺のお堂に祀られているのは北向地蔵。
別名「一願地蔵」とよばれていて、堂内に書かれているお地蔵様の御真言を7回唱えれば、悩みを取り除き、一願を叶えてくれるといいます。
お地蔵さんのように祀られている大日如来。
一見お地蔵さんと思ってしまうのですが、胎蔵界大日如来の印を踏んでいるように見えます。
石碑にも大日如来と書かれているので、大日如来ですね^^
脇侍として並んでいるのは子育て地蔵さん。
本堂で前掛けを買って、子授け・子育て・家族繁栄を願ってお地蔵さんに前掛けをかけると福を授かるそうです。
一本だけ長く伸びる杉の木は、白蛇大明神を祀る霊杉。
ここの白蛇大明神に、二十一日間、三十七日間と限って参拝祈願すると、福徳を得て祈願成就すると言い伝えられているそうです。
毎日ここを上ってくるのも大変ですね^^;
こちらは護摩堂。
観音正寺では修験も行っているようで、ここの護摩堂が繖峯修験道の根本道場になっています。
3月の山開きと11月の山閉めにはここに集まって、回峰行が行われるのだそうです。
狭い境内でもいろいろありますね^^
本堂の特別内陣拝観!御本尊の御身拭いをさせてもらいました
境内の一番奥にある観音正寺の本堂。
先ほど書いた通り、平成5年(1993年)に火災で本堂を焼失していますので、現在の本堂は平成16年に建てられた比較的新しい建物です。
その中には、現代の慶派仏師、松本明慶さんが作ったという、像高6.3m(光背を含めて)、すべて白檀で造られた丈六(坐像で約2.4m)の御本尊、千手観音坐像がいらっしゃいます。
御本尊は撮影禁止なので、頂いたパンフレットの写真をお借りしました。
この御本尊、
お経には仏像は白檀で造るもの、と書かれていて、インドではそれが普通だったのですが、日本では白檀は希少なので、代わりに用いられているのがカヤ材です。
今でもインド産の白檀は禁輸品目で、原木は国外に持ち出せないんですね。
それを観音正寺では、丈六という大きな御本尊を、総インド産白檀で仕上げているんです。
平成5年の火災の前には重要文化財の千手観音立像が祀られていて、それが火災で灰塵に帰してしまったわけですから、当時の住職は責任を感じていたそうです。
そんな時に経典に説かれていた「観音像は白檀で造るべし」「白檀の香りがすべての罪障を除滅する」という一文に啓示を受け、総白檀の仏像を造立を発願したそうです。
それで何度もインドに足を運び、何度もインド政府に何度も何度もお願いして、なんとか特別に23トンもの原木を持ち帰ることの許可を得たといいます。
それで造られたのが現在の御本尊というわけです。
なのでかなり貴重な総白檀仏像なのですが、しかも丈六という大きさ、さらには光背の手は実際に千を数えるそうです。
千手観音だから当たり前じゃないか、と思う方もいらっしゃると思いますが、実際に千の手を持つ千手観音は、奈良の唐招提寺や大阪の藤井寺の千手観音くらいなんです。
千手観音の「千」は「たくさん」という意味で解釈され、たくさんの人を同時に救うことができる、ということを意味します。
そして実際の仏像の手の本数は省略されて造られているのが一般的です。
なので、実際に千の手を持つ観音様を、しかも総白檀で造ってしまうというのは、当時の住職の並々ならぬ思いがあったのでしょう。
光背の手も、外陣から見ると小さく見えるのですが、近くで見せてもらうと実物は人の手ほどの大きさで、肘から上の手を挿しているのです。
思っているより大きいです^^
御本尊は秘仏ではないのでいつでも拝観できるのですが、2016年10月中に限り西国三十三所巡礼1300年記念として、内陣特別拝観が行われていました。
特別拝観料は300円で、お寺の方の案内付き。
内陣入り口で、和紙でできた散華と、願成就ひもを頂けます。
散華は、御本尊のそばまで行って、お身拭いをさせてもらえるのです!
つまり、散華で御本尊を拭かせていただけるということですね^^
その散華は、持ち帰ってお守りにすることができます。
願成就ひもは御本尊とつながっていたひもで、入り口でお寺の方に手首に結んでいただきます。
切れたら散華と一緒にお守りにすると良いそうです。
散華には白檀の香りがうつっていました。
直接的な御利益は格別感があります^^
本堂の裏には、重要文化財の三十三所観音曼荼羅がありました。
※「集英社ウィークリーコレクション 週刊 古社名刹 巡拝の旅41 近江水郷めぐり」より
描かれたのは室町時代、西国三十三所の描く霊場の観音菩薩像を一画面に描いたもので、一度に全観音像を拝めるようになったものです。
中央には釈迦三尊、その下には、観音正寺の開基となる聖徳太子が描かれています。
ただ、どの観音様がどの札所のものなのか、特定できなくなっているんですね^^;
一部、上部中央の如意輪観音が1番札所の青岸渡寺、左端上から2番目の岩盤に立つ十一面観音が8番札所の長谷寺、右端上から3番目の両脇手を頭上に上げたのが16番札所の清水寺と、分かっているものもあります。
やっぱり、特徴がはっきりわかる仏様はすぐ特定できますね^^
観音正寺の御本尊は、火災で焼失する前の御本尊、千手観音立像なのですが、像容としては右下2番目の千手観音が似ているそうです。
私は残念ながら焼失前の御本尊を見ていないので、こちらの曼荼羅で当時の御本尊に思いを馳せていただきました。
こちらは本堂からの眺め。
どこから見ても素晴らしい景色ですね^^
御朱印
観音正寺にはいくつか御朱印があります。
- 西国三十三所 第三十二番番札所
- 近江西国霊場 第十九番札所
- 聖徳太子
です。
私はそのうち、西国三十三所と聖徳太子の御朱印を頂いています。
西国三十三所観音霊場の御朱印です。
御詠歌です。
「あなとうと 導きたまえ観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを」
と書かれています。
聖徳太子の御朱印です。
観音正寺に行く5つのルート
今回は私は、表参道から歩いて観音正寺に向かいましたが、観音正寺までの道は他にもあります。
車で行く場合の2ルート、徒歩で登る場合の3ルートで、合わせて5つのルートです。
- 車:林道 繖山線(安土側)
- 車:林道 観音寺線(五個荘側)
- 徒歩:表参道(石寺楽市のところ)
- 徒歩:裏参道(結神社の境内から)
- 徒歩:桑実寺から観音寺城経由で境内へ
です。
情報収集したものをまとめてみたので、行かれる方は参考にしてみてください。
まず、車で行く場合は山上駐車場があります。
繖山線、観音寺線の2ルートがあって、それぞれに駐車場があるのですが、どちらも山上までの道路通行料として600円が必要です。
そして、どちらも道幅が狭く、すれ違うのはなかなか厳しい道となります。
安土方面からの繖山線は、駐車場で降りると表参道と合流します。
駐車場は6~7台で、車を降りたあとは440段の階段を上る必要があります。
車でのルートを説明している動画がありました^^
こんな感じです。
五個荘方面からの観音寺線は、車を降りると裏参道と合流します。
こちらは15台ほど停めることができて、お寺までは緩やかな上り坂を15分ほど歩きます。
足腰の悪い方や、できるだけ楽に生きたい方はこちらの観音寺線を利用するのが一番楽でしょうね。
ただ、運転するときの道の厳しさはどちらもかわらないようです。
次に徒歩ですが、まずは私が実際に歩いてみた表参道。
観音正寺の南側にある石寺の集落から上る道が、表参道になります。
こちらは約1200段の不揃いの石段!
約45分の道のりとなります。
駐車場は、麓にある石寺楽市という、地元野菜も並ぶお土産屋さんに停めることができます。
料金は300円でした。
裏参道は、観音正寺の東側の麓にある川並町にある結神社の境内から上ることができます。
結神社は、フレンドマート五箇荘店から県道202号線を北側へ、一つ目の信号を超えて次の交差点に観音寺口のバス停がありますので、そこを左に曲がって突き当りにあります。
徒歩50分の道のりです。
表参道から上るよりは、ここから上る方が楽なようです。
駐車場はありませんので、JR能登川駅よりバスを利用して観音寺口で降りると良いですね。
最後に、桑実寺から来る場合は、まずは桑実寺の拝観料が必要です。
そして桑実寺から観音寺城跡を経由して観音正寺にたどり着きます。
所要時間は約40分です。
桑実寺には5台ほど停められる駐車場があります。
今回は1200段の石段を上りましたが、、足の疲れよりも、息があがってしまうのがきつい感じがしました。
段差の不揃いでノンリズミカルな上り方になったのも関係があるのかもしれません。
さすが西国三十三所の難所の一つでした。
でも、ゴールにたどり着いた気分は格別でしたよ^^
ただ、この記事を書くまで奥の院の存在を知らなかったので、そちらを見逃してしまいました><
観音寺城跡も散策していないので、またいつの日かリベンジしようと思います。
1200段が心配ですが細やかな説明と実際歩かれた感想が励みになりそうです、近々チャレンジします
CGさん、コメントありがとうございます。
麓からチャレンジされるのですね!
ぜひ頑張ってください^^