井口弾正邸宅跡

長浜市高月町に井口(よみ)という集落があります。
そこに、富永小学校があるのですが、その正門の横に「井口弾正邸宅跡」と書かれた石碑があります。

そこから少しだけ南下すると、理覚院というお寺があります。

理覚院

元々は、「己高山 長安寺」というお寺がこの地にあったそうで、己高山仏教を支える一寺院として平安・鎌倉時代には栄えていたそうです。
しかし戦国時代になると、このあたりのたの社寺と同じようにたび重なる戦乱で多くのものを失います。

そしてわずかに残った一坊がこの理覚院です。

理覚院は井口氏代々の菩提寺なのですが、冒頭で紹介した「井口弾正」とは誰でしょう?

浅井氏・井口氏の系図

井口氏はこのあたりを拠点としてた土豪で、佐々木氏や浅井氏とゆかりの深い一族です。
井口氏の出自について詳しくは、理覚院にほどなく近い円満寺の記事に書きました。

簡単にいうと、高月地方の水利権を握っていた一族ですね^^

系図をみてわかると思いますが、井口弾正は、浅井長政の義祖父、浅井三姉妹の曾祖父にあたります。

井口弾正は浅井家に忠誠を尽くしていたのですが、その忠誠ぶりを伺うエピソードが「浅井三代記」に残っています。
要約すると、このようなエピソードです。

京極氏・六角氏と戦っていた浅井亮政は、享禄四年(1534年)箕浦の合戦で六角定頼の手勢に包囲されてしまいました。

「もはやこれまで!」

と自刃しようとした時、井口弾正がこれを救うため、自ら亮政の甲冑を着して身代わりとなり、その首を敵方へ送ったのです。
これによって亮政は難を逃れることができたのです。

戦の後、亮政は弾正の忠死を大いに慎み、井口弾正の娘「阿古」を、嫡男の「久政」の室に迎えました。
この二人は後に浅井長政の両親となります。

このようにして井口氏は浅井家との関係を深め、浅井家の重臣「湖北の四家」の一家となっていったわけですね。

理覚院の観音堂です。

理覚院 百体観音

理覚院 百体観音

理覚院 百体観音

小さな仏像がたくさん並んでいますが、これは百体観音像です。

百体観音像が安置されているのは、湖北地方で唯一、ここだけなんですね。
理覚院の百体観音は全国の三十三所巡礼のうち、西国、坂東、秩父といった人気の三十三所観音霊場の観音像のうつしが置かれています。
そして真ん中には本尊の観音様。
いわゆる「うつし霊場」です。

三十三所霊場を本気で回ろうとすると、範囲がかなり広いので大変です。
今は車でいける時代ですが、それでも大変なんですよね^^;
昔はもっと困難だったのは想像できます。

そういうところから、江戸時代に生まれた民間信仰がうつし霊場です。

各札所の像の写しを用意し、各札所の土や石を運び、観音霊場を再現します。
そしてそれを参拝すれば、同じ功徳が得られると考えられていたんです。

江戸時代らしい考え方ですね^^

御朱印

理覚院の御朱印です。

理覚院 御朱印

御朱印はスタンプになっていました。


私は情報不足で見忘れてしまいましたが、ここには観音堂の隣に井口家の供養塔があり、滋賀県指定文化財・名勝となっている小堀遠州作と伝わっている理覚院庭園もあります。

見逃さないように気をつけてください^^;