長浜市高月町の西北部、田園地帯の広がる「東高田」という集落があります。
その田園地帯の中に、こんもりとした森があり、その中に
公園も兼ねた、村の小さなお寺。
現在は無住職なので、地元の老人会が管理しています。
そのようなお寺ですが、歴史は平安時代にさかのぼります。
集落には「赤川」という川が流れているのですが、延暦二十四年(805年)二月に伝教大師 最澄がこの地へ訪れた時、川底から一条の光明が差しているものが見えました。
その光り輝くものを取り上げてみると、それは十一面観音だったのです。
最澄は早速草庵を作り、青陽山 赤分寺と名付けました。
それが赤分寺の縁起です。
それからは東西からたくさんの有縁の信者たちが群をなして参詣されるので、ここに六つの坊を境内に建立し、人々に便宜を図りました。
このことはやがて足利将軍の耳にも達して篤く庇護され、武運長久の祈願所となったのです。
それを維持するために広く陣地が与えられ、朱印地として繁盛したのですが、永正元年(1504年)、京極氏と浅井亮政の戦乱で戦禍にあってしまいます。
しかし、御本尊は戦禍を免れ、堂々としていたのだそうです。
こちらがその御本尊を祀る観音堂。
観音堂内には3尊の仏様が祀られています。
こちらが正面厨子にいらっしゃる御本尊の十一面観音菩薩。
長らく秘仏として守られてきたというのですが、腹部から足元にかけてプロポーションや厚く重たげな衣文から、室町~江戸時代にかけての作と考えられているそうです。
最澄のいた平安時代に発見されたとも、最澄の作ともいわれていて、戦国時代の戦禍も免れたはずなのですが、仏像的には後世の作。
信仰のよりどころなので大きな声では言えませんが、実際には戦禍で焼失してしまったのかもしれませんね^^;
しかし、後世の作とだけあって、お顔立ちや衣文も見事です^^
向かって左側の厨子には、弁天様。
江戸時代の作です。
観音様の脇侍に弁天様を置くのは珍しいですね。
弁財天は芸能の神として信仰されていますが、そもそもは河を神格化した農業神だったのだそうです。
東高田には赤川が流れていますし、その赤川は現在は整備されて直線的になっていますが、明治初期の絵図をみると、その時代でもまだ蛇行していたようです。
このような土地柄ですし、そこで生活していくなら、川とは上手に付き合いたいですよね^^
そのようなところから信仰が産まれたのかもしれませんね。
また、この弁天様は、琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁天様と同じ姿をしています。
竹生島は距離的にも近いですし、竹生島信仰とも大きな関わりがあるようですね。
向かって左側の厨子には地蔵菩薩。
江戸時代の作です。
一般には「輪廻の世界である六道の衆生を救う菩薩」とされています。
(※六道について、知らない方はこちらの記事で説明しましたのでご参考ください⇒聖衆来迎寺の虫干し 六道絵を拝観しました)
しかしここでは、大地の恵みを神格化した菩薩とされているので、こちらも村の信仰の形として一緒に祀られたのでしょうね。
衣装が細かくなかなかキレイなお地蔵さんでした^^
ご朱印
赤分寺のご朱印です。
赤分寺の境内には、天然記念物にも指定されている「ハナノキ」という木があります。
この木は、岐阜、長野、愛知、滋賀にまれにみられる程度の希少な植物なのですが、濃紅色の小さくてキレイな花をたくさんつけるのだそうです。
3月下旬から4月上旬にかけて咲くのだそうですが、難しいのはタイミングです。
なんと、2、3日で散ってしまうのだとか。
地元の人でも見逃してしまうようなので、そういうタイミングに訪れることができたらラッキーですね^^