地域の名前は
木ノ本駅から東方にある
ここから鶏石寺にかけては紅葉の名所としても知られていますね♪
このお寺は、作家、井上靖氏の小説「星と祭」に出てくるお寺で、本尊である十一面観音について
「村の娘さんのお姿をお借りになって、ここに表れているのではないか?」
と書かれていました。
口紅がうっすら残っている仏像なのだそうです。
なかなか気になる観音様なのですが、なかなか訪れる機会がなく、今回やっと来れたという感じです^^
現在は集落の人が交代で守る小さなお寺となっているので、基本的には無住のお寺なので拝観には事前予約がベターです。
創建は神亀3年(726年)、延法上人が創建したのですが、この時代は奈良に平城京があった奈良時代の初期。
その時代にこの場所で寺院が開かれるのは驚きですが、実はこの頃、己高山は奈良の興福寺の寺領だったそうです。
大和興福寺文書によると、その頃は僧房が38宇、衆徒が20口もあった大寺院だったのだとか。
比叡山よりも早く仏教文化が栄えていたんですね。
その後は一旦廃れるのですが、延暦23年(804年)に伝教大師 最澄が十一面観音を祀って再興して天台宗となります。
さらにその後再び廃れて、文和3年(1354年)に京都護国寺の源照上人が再興し、天台宗から真言宗になっています。
石道寺は、かつて己高山にあった法華寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の、己高山五箇寺の1つに数えられています。
己高山は山岳信仰(修験道)の修行の地として栄えるようになりましたので、寺院が多数建立されたのはその為です。
そして、己高山は近江の国の北東、鬼門の位置にあります。
つまり、近江国を守護する役目もあったわけです。
石道寺へ向かう道は、車がすれちがえないような細い道を進んだりして、本当にこんなところにあるんだろうか?と不安になりそうですが、所々に石道寺を案内する看板に救われます。
参道から見える景色は緑一色。
でも、民家のあるところからほんの少しだけ登ったところに本堂である観音堂が見えてきます。
観音堂に登る前の道には立派な石垣もあります。
その上にある観音堂。
現在の石道寺は、元々からこの位置にあったのではなく、明治の頃に移築したもの。
元々はもう1km山の中にお堂があったんです。
明治29年に無住になってしまったので、大正になってから仏像を集落の人が守れるように山中から里に移しました。
そして今、交代制で祀られています。
私が参拝した日は8月の第一日曜日に開催される観音の里たかつきふるさとまつりの日だったので、1日中扉を開けてくれている日でした。
集落の方がお堂の中に案内してくれます。
参拝の時、お堂の扉の前に立つと中からエアコンをかけているような冷たい空気が感じられました。
霊験あらたかそうな感じです^^
お堂の中には、平安時代中期作、重要文化財の十一面観音像のほか、同じく重文で鎌倉時代作の持国天立像、多聞天、旧高尾寺の十一面観音立像がいらっしゃいます。
お堂の中の撮影は禁止。
なので、パンフレットなどから紹介します。
こちらが、村の若い娘のような十一面観音様。
画像:パンフレットより
地元では「いしみちの観音さん」と呼ばれています。
高さは173.2cm。ケヤキの一木造りです。
確かに口紅をしているような赤い唇ですね。
そして、今時の流行のような細くて整えられた眉毛^^
決して派手ではありませんが、おしゃれですね♪
お次は全身図です。
画像:図録「湖北の観音」より
頭上面のお顔は、向源寺のものよりは小さいですが、立派なので整った感じがしますね。
そして、足元から膝にかけても紅色がわずかに残っていて、極彩色で彩られていた名残を感じます。
全体としては温かみを感じる観音様ですね^^
あと、ご利益に関してですが、この観音様は子授けの観音様とも言われています。
ご利益に預かりたい方はぜひ、拝観してみて下さい。
拝観は、納経所に人がいれば良いのですが、いないこともあるので、できれば事前予約がベターです。
御朱印
石道寺の御朱印です。
石道寺の境内には、さらに山の奥にある鶏足寺跡に行くことができます。
この辺りは湖北随一の紅葉の名所で、石道寺から鶏足寺(旧飯福寺)を経て、己高閣・世代閣方面に続く遊歩道になっています。
私もまだ紅葉の時期に来たことがないので、今度は紅葉の時期に来てみたいです^^