和歌山県北部、紀の川市粉河にある古刹、粉河寺。
古くから西国三十三観音霊場の第三番札所として栄えたお寺です。
清少納言の書いた「枕草子」では、
「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀。」
とあり、平安時代末期の歌謡集「梁塵秘抄」では、
「観音
と書かれるなど、古くから霊験あらたかなお寺として知られています。
2016年は西国三十三所草創1300年という記念イヤーで、2020年までの5年間、西国三十三所の各寺院で色々なイベントが催されるそうです。
粉河寺では、2016年3月26日~5月5日まで、眼病に霊験あらたかな薬師堂のご本尊、薬師如来が御開帳されています。
私はそれに合わせて、初めて粉河寺を参拝しました。
境内は広く、自然が豊か。
参道は整えられていて、気持ちの良い空間でした^^
粉河寺は、お寺にして大名クラスの力を持っていた
粉河寺の玄関口となっている大門は、桁行12.48m、梁間7.48mという立派な楼門で、国の重要文化財に指定されています。
和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ威容を誇るのだそうです。
両サイドには、仏師
これだけ風格がある門を構えているということは、いかに厚い信仰を集めていたのか、想像ができますね^^
粉河寺は、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北共四キロ余りの広大な境内地、寺領四万余石を有していたそうです。
江戸時代には石高が一万石以上あると「大名」と呼ばれていましたから、粉河寺はお寺でありながら大名クラスの力を持っていたということです。
そんな大寺も、戦国時代に廃寺となってしまいかねない事件に巻き込まれてしまいます。
それが、信長や秀吉が行った、紀州攻めです。
紀州地方には戦国随一の鉄砲隊を持つ雑賀衆や、真言宗の拠点となっている高野山、僧兵を有する根来衆などの強力な勢力がありました。
粉河寺の勢力も「粉河衆」と呼ばれ、勢力の一つに数えられていました。
これらの集団はそれぞれが力が強大で、宗派も違いながら、紀州内では平和に共存していたんです。
しかし戦国時代になると、天下人に対して真っ向から対立する思想をもち、各地の一揆や、反対する勢力に手助けを行い、信長や秀吉も手を焼きます。
それで行われたのが紀州攻めです。
粉河寺は根来寺に味方したため、秀吉の紀州攻めにあったため、灰燼と帰してしまいました。
しかしその後に紀州徳川家の保護を受けて復活しました。
それ以来、かつてほどの規模はありませんが、現在でもかなりの規模の寺領を有するお寺となっています。
この立派な大門は、建立時期は分かっていませんが、宝永四年(1707)に再建されたことがわかっています。
紀州徳川家のおかげで、かつての威容を感じ取ることができるわけですね^^
粉河寺のそばを流れる、寺名の由来となった川
大門をくぐると参道が続くのですが、右にカーブしています。
右手には長屋川が流れているのですが、この参道は実は、長屋川に沿っているのです。
実はこの川、粉河寺の「粉河」と名前の由来となった川で、「粉河寺縁起」(国宝)という絵巻に登場します。
そこには、
「粉をすって入れたような白い河」
と書かれていて、実際に白い川だったようです。
現在はなんともない小さな川にしか見えませんが、きれいに整えられていて川の水の音で自然の気持ち良さを演出してくれていました^^
粉河寺縁起絵巻に描かれる、童子姿となって現れた千手観音
画像:パンフレットより
粉河寺の宗派は、天台宗の一派、粉河観音宗です。
その名前の通り、粉河寺の創建には観音様が関わっているんですね。
「粉河寺縁起」は、2つの物語で構成されていて、前半は御本尊の由来です。
このような内容になっています。
宝亀元年(770)、
ある時、孔子古は山中で地面が光を放っている場所を見つけました。
この世ならぬ尊厳さを目の当たりにした孔子古は、日頃の殺生を後ろめたく感じ、ここに庵を建てました。
しかし、そこには安置したい仏像がありません。
どうしようかと悩んでいると、どこからか一人の少年の修行者が現れ、その日の宿を求めてきました。
翌朝、孔子古に望みはないかきいたところ、孔子古が仏像を求めていることを知り、七日間籠ってその間に仏像を彫る事を約束しました。
七日目になって庵を開けると、童男行者の姿はなく、千手観音像が立っていました。
孔子古はその千手観音像を大切に祀ることにしたのです。
こちらが前半の話で、創建年が宝亀元年(770)、千手観音が祀られたことが始まりであることがわかります。
そして後半は、千手観音の霊験譚となっています。
河内国の長者、佐太夫の娘が重病にかかり、身体が腫れ膿む病で苦しんでいました。
あらゆる手をつくしても癒えなかったのですが、そこへ童男行者が現れます。
行者は一心に祈り、やがて娘は回復しました。
長者は山のような御礼を差し出すのですが、行者は受け取りません。
泣く泣く娘が捧げた紅の
「わが住まいは紀伊の国、那賀郡の粉河」
とだけ言い残し、去っていきました。
翌年、佐太夫は一家を引き連れ、那賀郡を訪れますが、「粉河」という場所を人は訪ねても誰も知りません。
ふと目の前の小川に目をやった時、小川の白さに気がつき、これが粉河だと川をさかのぼってみると、川上に孔子古が建てた草庵を見つけました。
そこには千手観音が建っており、しかもその手には紅の袴と提鞘が掛けられていたのです。
それを見た佐太夫は、童男行者が千手観音の化身であったのだと悟り、その場で出家してここに堂宇を建立しました。
このような内容が、粉河寺縁起に書かれています。
そして大門から参道を歩き始めてすぐ、本坊の横にあるのが童男堂。
千手観音の化身、童男大士(童男行者)を祀るお堂です。
再建に際して江戸時代に建てられたお堂で、廟建築の形式になっています。
残念ながら童男大士像は秘仏で、普段はお堂の中は見えませんが、一年に一度御開帳の機会があります。
それが、一年を締めくくる観音様の縁日、いわゆる「終わり観音」の日となる12月18日に行われる
開帳法要の時間は朝の6時くらいで割と早く御開帳されるのですが、閉帳時間も15時くらいで納経終了時間よりも早いので、拝観したい方はそのあたり気をつけてください。
ちなみに御開帳の際には、童男大士だけでなく、壁画や格天井、特に欄間の飛天や極楽鳥の彫刻などは江戸時代前期の優れた作品として知られているので、忘れずに見ておきたいところですね。
童男堂の横には、童男大士が柳の枝を手に白馬に乗って出現したという出現池があります。
塀で覆われているので、覗かないと池があることはわかりにくくなっています。
覗いてみると、池の左側には千手観音が安置されるお堂がありました。
そして真ん中には童男大士がいらっしゃいます。
童男大士は、現世利益の仏として、主に病気平癒に霊験あらたかなのだとか。
小河寺縁起に描かれている通りですね^^
そして、祈願が成就した場合、この池に鯉を放生する風習があるのだそうです。
「風猛山」の扁額を掲げる粉河寺中門
長い参道を歩いて行くと、中門(重文)が見えてきます。
三間一戸の楼門で、明和(1764~1772年)の頃から長い年月をかけて天保三年(1832)に完成したようです。
両サイド前後になぜか四天王を祀っています。
普通は、御本尊の東西南北に立つガードマンの役割をするのですが、ここでは四人そろって門番をしています。
こういうケースは珍しいですね^^
扁額には、粉河寺の山号にも使われている
紀州徳川家十代藩主、徳川治宝直筆です。
なんとも強そうな名前ですね^^
しかし昔は「かざらぎさん」と呼んでいたそうで、境内は現在の場所よりも北側にある
そのため、それが訛って「かざらぎさん」になったのではないか?という説があるそうです。
【粉河寺庭園】本堂の前庭と下の広場の落差に作られた、豪快な庭園
中門をくぐると、本堂前の広場に出るのですが、そこから本堂に目をやると、不思議な光景に出合います。
それが、粉河寺庭園(国指定名勝)です。
広場と本堂は約3メートルほどの高さの差があって、階段で向かうのですが、階段の横は石垣ではなく、その段差に庭を作っているのです。
桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園といわれ、紀州産の緑泥片岩などの巨石が豪快に使われています。
普通はお堂の前に庭用のスペースが用意され、そこから個性を勝負するものがほとんどですが、こういう場所に作るのもなかなかすごいですね^^
西国三十三ヵ所の札所の中でも最大級の大きさ!粉河寺本堂
粉河寺の本堂は、創建以来5度の火災と1度の兵火に見舞われています。
その度に再建され、現在の本堂は享保五年(1720)に再建されたものです。
江戸中期の寺院建築の中でも代表的な大建築で、名刹揃いの西国三十三所の札所寺院の中で、最も大きいといわれています。
横から見ると屋根が複雑になっています。
実は一重目の「礼堂」と二重目の「正堂」が合体しているんですね。
この本堂に祀られているご本尊は、もちろん粉河寺縁起でも語られている千手千眼観音。
残念ながら絶対秘仏です。
今まで公開されたことがなく、誰も見たことがないのだそうです。
特別拝観で本堂に上がったのですが、中央には閉じられた厨子がありました。
周りには多彩に表現された二十八部衆と、京都の三十三間堂のものとはちょっと違った、風神・雷神が配置されています。
この厨子に本尊が安置されているのかと思いきや、寺の言い伝えによると、本物のご本尊は一寸八分(5~6センチ)という小さな像で、厨子の真下にある光明井という井戸の深いところに、素焼きの入れ物に入れられて安置されているのだそうです。
ご本尊を火災から守るためなのだそうですが、粉河寺は創建以来、6度も本堂を焼失していますからね。
ただ、本堂の大きさを考えると、ご本尊の小ささに違和感がありますので、本当にそうなのかはわかりません。
御本尊の威厳を保つためかもしれませんが、そうだとしてもそのために西国三十三所最大の本堂を建てるのには費用がかかりますね^^;
ちなみに御前立の像がいらっしゃるらしいのですが、その像ですら秘仏になっていて、お目にかかれません。
この御前立像が厨子に入っているのでしょうか?
ご本尊の御開帳の機会に立ち会うのは難しそうですね^^;
本堂にはその他にも、十王堂にあった閻魔大王坐像、八大将軍吉宗が寄進したという左甚五郎作の「野荒らしの虎」、羅漢堂にあった十六羅漢像、そして鬼子母神像や不動明王、弁財天、大日如来などもいらっしゃいました。
なかなかの仏像の宝庫でした^^
粉河寺 千手堂の千手観音は、かつてご本尊の代わりに御開帳されていた
本堂のお隣にポツンと建っているお堂は、宝暦十年(1760)に再建された千手堂(重文)。
本堂の御前立に似ているという千手観世音菩薩を祀っています。
そしてその千手観音の両側の祭壇には、紀州歴代藩主とそのゆかりある人々の位牌が安置されています。
実はこの千手堂の千手観世音菩薩もなかなかの秘仏です。
2008年に御開帳されたのですが、その御開帳は217年ぶりなのだとか!
その前の御開帳は、1790年だったんですね^^;
2008年は、西国巡礼を再興した花山法皇の一千年忌を記念する年で、西国三十三所の各札所では、秘仏の結縁開扉が行われたんですね。
多くのお寺がご本尊を御開帳する中、粉河寺の御本尊はそれでも御開帳されませんでした。
その代わりに御開帳されたのがこの千手堂の千手観音です。
ご本尊の御開帳はかなり遠いことがわかりますね^^;
それにしても千手堂の千手観音が、なぜそんなに秘仏にされるのか?
実は、千手堂には紀州徳川家の御位牌が祀られるようになって以来、紀州徳川家の許しがなければ御開帳できなくなったのです。
それがそのまま現在に至ります。
今となっては定期的に御開帳しても良さそうなのですが、2016年の現在もまだ、それ以来の御開帳はありません。
その先も未定のようです。
御開帳の機会は、見逃さないようにしたいですね^^;
粉河寺の総鎮守、粉河産土神社
本堂と千手堂の間の裏手には、急な登り階段があります。
「たのもしのみや」と書かれたこの階段を登ると、粉河産土神社があります。
粉河寺の御詠歌は、
「父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」
というものですが、その意味は、
「両親(父母)は、わが子ほどかわいいものはありません。同じように、粉河寺の観音様は、信心深き人々を我が子のごとく愛し、万一不時災難に遭おうとも、代わってそれらの苦をお受けになるとお誓いされているから頼もしい身の上ですよ。」
ということです。
「身や」と「宮」をかけて、そのように呼んでいるんでしょうね^^
お寺の境内にあるこの神社の神様は、粉河寺を守ってくださる鎮守の神様。
丹生都姫命 天忍穂耳命
の二神です。
粉河寺の開基である大伴孔子古の子、の大伴船主が783年に創建したとされています。
境内には、神社で飼われている猫のタンゴ(神社の方がそう呼んでいました)。
そして孔雀のピーちゃんもいます。
この神社では、7月最終土・日に、紀州三大祭に数えられる勇壮な祭り粉河祭が行われます。
土曜日が「宵祭」、日曜日が「本祭」です。
宵祭では門前町に夜店が並び、だんじりの提灯に火が灯ります。
そして本祭には神輿やだんじり、武者姿の稚児や獅子舞の行列が練り歩く「渡御式」があるようです。
YouTubeにその様子が納められた動画がありました。
ただ、渡御式は2年に1度。
動画は2014年のものなので、偶数年にあるようですね。
粉河寺の薬師如来は眼病に霊験あり!
本堂から東北方向に行くと、少し小高くなったところに薬師堂があります。
ここには眼病平癒に霊験あらたかなお薬師さんがいらっしゃるんです。
普段は閉じられていて、年に一度、初薬師の1月8日のみ御開帳されるという仏様です。
それが、2016年は3月26日~5月5日までのロング御開帳!
訪れてみると既に扉は開かれていて、お薬師さんがいらっしゃいました。
平安時代後期のものとされる薬師如来座像は、高さ約57センチ。
金色に輝いています。
そして脇侍に日光菩薩・月光菩薩、その周りにはお顔がカラフルな十二神将がいらっしゃいました^^
そして、この特別公開期間中のみの限定御朱印が用意されているので、こちらも頂きました。
後で紹介します。
粉河寺の御朱印
西国三十三所観音霊場 第三番札所の御朱印です。
御詠歌の御朱印です。
上でも紹介しましたが、
「父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」
と書かれています。
粉河寺薬師堂の薬師如来の御開帳中限定御朱印です。
薬師如来を表す梵字(ぼんじ)で、本尊の姿を表現しているそうです。
その他、粉河産土神社でも御朱印があったのですが、お寺だけだと思って神社用の朱印帳を持ってくるのを忘れてしまったので、今回は頂きませんでした。
粉河寺門前「物産センターこかわ」でスイーツ巡礼♪
2016年から5年間行われる西国三十三所草創1300年を記念する特別行事に「スイーツ巡礼」というものがあります。
各札所で限定スイーツも楽しんじゃおうというものです^^
正直、まだ始まったばかりだからなのか、パッとしないところが多いのですが、粉河寺の限定スイーツは美味しそうだったので頂くことにしました。
販売している場所は、門前の交差点にある「物産センターこかわ」。
お土産屋さんですが、イートインもできます。
そしてここで用意されている限定スイーツは3種類。
- はっさくプーロ:1枚90円~。はっさくをスライスして、アーモンドと一緒に焼き上げた焼き菓子
- きのくにシュトーレン:1本1,500円。地元の果物をドライフルーツにして練りこんだお菓子
- 鞆淵の黒豆大福:1個130円。昼夜の寒暖の差が大きい山間の地域「
鞆渕 」で育てた上質の黒豆をこしあんにした和菓子。
それぞれで購入することもできますが、ここでは「3番スイーツコーヒーセット」(600円)というセットでその場で味わうことができます。
こちらがそのセットです。
まずははっさくプーロ。
はっさくのほろ苦さがありますが、それが焼き菓子の香ばしさに変化を加えています。
普通の焼き菓子の香ばしさだと、そのうち飽きてしまいますが、はっさくが足されると香りが複雑になるので、食べ続けても飽きなそうですね^^
はっさくプーロは、物産センターこかわで作っているそうです。
お店オリジナルの焼き菓子ですね^^
シュトーレンは作るのに非常に手間のかかるドイツのお菓子ですね。
それを、和歌山の旬なフルーツを使って作っているのがきのくにシュトーレン。
季節によってフルーツが変わるのですが、やはりフルーツが色々使われているものなので美味しいです^^
何が入っていたのかはわかりませんが、こちらは味わいが複雑。
3つの中で一番美味しかったと思います。
鞆淵の黒豆大福は、素材の黒豆が特徴です。
鞆淵という場所は丹波産の黒豆に負けないとのことで、食べる前に一番期待していたのですが、期待し過ぎたせいか、上の二つほどインパクトは感じませんでした。
こしあんでしたが、つぶあんにした方が食感に飽きがこないと思いますし、皮が厚めなのも勿体ない気がしたんですよね~。
とはいっても、これは好みの問題だと思いますので、あくまで参考程度に^^;