東大寺に行くと、いつも賑わっているのは大仏殿。
そして運慶作の大きな金剛力士像が置かれている南大門も人気がありますよね。
今回はそんな人気スポットから少しだけ離れて、若草山方面へ向かったところにある、東大寺の開山堂、法華堂(三月堂)、俊乗堂に行ってみました。
毎年12月16日は、これらの3つのお堂の特別御開帳日となっているんですね。
今回の記事は開山堂です。
法華堂、俊乗堂は別記事に書きました。
開山堂には、国宝の良弁僧正坐像が安置されています。
東大寺の開山(創建)は行基だと思っている人が多いのですが、実はこの
初代別当、つまり最初の最高責任者なんです^^
行基は大仏造立の責任者として貢献しましたが、東大寺の開山ではありません。
12月16日は、良弁僧正の命日にあたりますので、この日に開山堂が御開帳されるわけです。
開山堂だけ行列ができます
現地に着くと、唯一並んでいたのは開山堂でした。
開山堂は、お水取りで有名な二月堂の斜め向かいにある、こじんまりとしたお堂です。
参拝者が大勢来ても一気に入れませんので、誘導の人が少しずつ入場させるようにしていました。
開山堂は、9時から法要が始まって、一般に公開されるのは10時頃からなのですが、私が到着した10時前にはすでにこの行列。
向かいにある法華堂の横あたりまで行列が伸びていました。
そこから約15分。
入り口の門の前に到着。
門の前では、参拝者にかりんの実が配られていました。
開山堂の境内にはかりんの木があるのですが、そこで採れたものでしょうか?
ものすごくよい香りで、ハチミツ漬けにしたらおいしそうでした^^
おそらく早い者勝ちでしょうね。
門をくぐると、お堂はすぐそこにあるのですが、先の参拝者の拝観が終わるのを待つために、そこから15分ほど並んで待ちます。
私は10時に来て30分くらい並びましたが、その後に行列が長くなったのかというと、そんなことはありませんでした。
その後も淡々と同じ長さの行列になっていて、私が法華堂を見て出てきても同じ長さでした。
おそらく何時に来ても同じくらいの待ち時間なのかもしれません。
東大寺の境内で御開帳の案内がされているわけではないので、御開帳されることを知っている人だけが来ているのかもしれませんね。
大仏様の遺構を残す小さなお堂
開山堂は、屋根が正方形の宝形造となっている小ぶりで質素なお堂ですが、実は結構貴重な建築様式になっています。
東大寺の南大門は、大仏様が最初に建てられた時の状態をそのまま現代に残していることで有名なのですが、開山堂もそれと並ぶ貴重な建物なんですね。
ちなみに大仏殿は後に炎上していますので、現在の建物は江戸時代の再建です。
大仏様が使われた当時の建物ではありませんので、当初の遺構を残すものとして開山堂は貴重なんです。
大仏様(だいぶつよう)とは?
大仏様は、平家の焼き討ちから東大寺を再建・復興させた鎌倉時代の僧侶、俊乗房 重源上人が、宋からもたらした技術に、日本古来の建築様式「和様」を組み合わせて完成させた技術です。
大仏殿のような大きな建物を建てるために考えられたんですね。
その特徴は、太い柱に穴をあけて、そこに「
使用する部材も規格化されて、工期を短くできるメリットもありました。
天井を張らず、屋根裏の架構が丸見えなのも特徴もあって、一見無骨なのですが、堅牢さは当初建てられた大仏殿とは比べ物になりません。
従来からある和様にも長押という横材を使いますが、それと比べても強度は数倍にも増しています。
ただし、大仏様の特徴は、外側から見てもあまりわからないかもしれません。
なぜなら、大仏様になっているのは仏様を祀っている内陣で、私たちが参拝する外陣は、和様になっているんです。
現在の開山堂は、鎌倉時代になって建てられました。
建てたのは、先ほども紹介した重源上人です。
その時は内陣だけで、重源上人お得意の大仏様で建てた建物だったようです。
しかも最初は別の場所にあったんですね。
それから50年後、現在の地に移築して、和様の外陣が増築されたといいます。
重源上人の時代は、一刻も早く東大寺を復興させようと奮起していた時です。
なので、規格化された部材で素早く作れる大仏様で建てたのでしょう。
でもやはり、このようなこじんまりとしたお堂には、和様の方が美しくまとまります。
だから、余裕が出たころに和様の外陣を足したのかもしれません。
東大寺の最初の最高責任者!良弁僧正の坐像
開山堂に上がると、すぐにいらっしゃるのが、肖像彫刻の傑作と名高い、国宝の良弁僧正坐像です。
この像は、今でこそ年に1回は御開帳されますが、長らく秘仏で公開されていなかったとのこと。
開山堂が建てられた平安時代に彫られたと考えられていますが、その割に彩色の状態も残るほど良い保存状態です。
お顔は優しそうでもあり、芯のある厳しさを持った感じにも見えます。
要するに、ちゃんとした人、という感じですね^^
手に持っている如意は、良弁僧正が実際に愛用していたものと伝わっています。
ご本人が生きていた頃の息吹を感じますね^^
良弁僧正は、聖武天皇に華厳経の教えを説いた、天皇の心の師匠のような人です。
良弁の働きがあったから、聖武天皇は大仏の造営を決意したといいます。
良弁には、二月堂の前に立つ良弁杉にまつわる話があります。
文楽や歌舞伎でも演じられる話なので、知っている方は多いかもしれません。
「お水取り」で有名な二月堂前の開けたところに一本だけ立つ長い木が良弁杉です。
良弁は滋賀の生まれなのですが、二歳の時、母親が桑畑に子供を置いて仕事をしていたところ、大鷲がその子供をさらって飛んで行ったのです。
その頃、岡寺の僧侶、義淵が春日大社に詣でていたのですが、二月堂前の杉の木に子供が引っかかっているのを見て、それを助け、連れて帰りました。
良弁はその義淵の弟子となり、お寺で育ちました。
そこで一生懸命勉強して、今や大僧正という身分になったのですが、両親が誰なのかわからないために、親孝行をすることができずにもどかしい思いでいました。
自分が拾われた杉の木に、いつか親に会えるよう、祈りを捧げていたんですね。
一方で母親は、30年も山河を歩き、我が子を探していました。
それでも会うことができず、あきらめてふる里に帰ろうと淀川を渡る船に乗った時のことです。
船に乗り合わせていた人が
「東大寺の良弁僧正は、わずか三十歳でありながら学に長けていて、聖武天皇の仏教の師になっているそうだ。
なんでもその良弁僧正は昔、鷲が連れてきて、杉の木の上でもて遊んでいた子だそうで、義淵僧正が連れて帰って育てた子なのだそうだ。」
とのこと。
それを聞いた母親は東大寺に行き、居合わせた僧侶に尋ねたところ、その僧は、ことの子細を書いて、杉に貼っておくようにと教えました。
ある日、良弁僧正は春日詣での帰りに、杉に立ち寄ったところ、その書付を発見します。
「これは何か?」とお付の者に尋ねたところ、ことの子細を述べて、その子供が一寸一分の観音像を首にかけていたという話をしました。
すると僧正は嗚咽して、ふところから観音の小像を取り出し、
「これは私が七歳の時、義淵僧正から授けられたもの。これは、僧正が私を連れて帰った時、首にかけられていたそうだ。以来、私は肌身離さず持っている」
といい、こうして親子は三十年ぶりに再会することができました。
という話です。
色々と語られる中で話の差異はありますが、大まかにそんなところです。
良弁の像を見て、この杉の木を見ると、そのエピソードが頭をよぎります^^
ちなみに現在の良弁杉は三代目です。
初代の良弁杉は、昭和三十六年の台風で折れてしまい、その後に挿し木で植えた二代目も枯れてしまいました。
良弁の話でもう一つ、聖武天皇との関係についてのエピソードがあります。
良弁は、最初は義淵僧正から法相宗を学んでいましたが、その後、今の三月堂辺りに建っていた
金鐘山寺は、東大寺の前身寺院で、聖武天皇が神亀五年(728)に幼くして亡くした皇太子の霊を弔うために建立したお寺です。
ある日、良弁が金鐘山寺で、念持仏であった執金剛神に祈願をこめていると、執金剛神の放つ光が宮中に達しました。
聖武天皇が不思議に思い、光の方角に人を遣わすと、その光が良弁の修行によるものだとわかりました。
それを聞いた天皇は、良弁に深く帰依するようになりました。
だから良弁は聖武天皇の師なんですね^^
東大寺というと、聖武天皇や行基、重源などの活躍が主に語られがちで、良弁はちょっと影が薄い印象があります。
でも重要な人物であるのは間違いなく、エピソードを知って御開帳を見に行くと、身近な人物にも思えますね^^
御開帳の日は年に一回しかありませんが、開山堂、良弁僧正坐像はともに国宝ですし、見に行く価値はあると思います。