高雄山 神護寺は京都市北西部、京都の中心地からちょっとだけ離れた高雄山の中腹にあります。
平安初期に活躍した名僧「弘法大師」ゆかりの真言宗の名刹です。
唐から帰ってきたばかりの空海が、最初に活動拠点にしていたお寺なんです。
さらに神護寺には、教科書でお馴染みの伝・源頼朝像(国宝)や平重盛像(国宝)をはじめとする国宝・重文クラスの寺宝が多数伝わっており、毎年5月1日~5日の寺宝虫払行事に拝観することができます。
また、多宝塔の菩薩、五大虚空蔵菩薩像(国宝)は、5体揃った最古の虚空蔵菩薩像とされていて、10月の体育の日を含む三連休中に御開帳されます。
お寺のロケーションは、京都の奥座敷といえる静かな場所で、春には桜、秋には紅葉の名所になります。
今回、私が訪れたのは10月9日。
紅葉にはまだ早いですが、五大虚空蔵菩薩御開帳に合わせて行ってみました。
神護寺へのアクセス・駐車場など
神護寺は山の中にあるので、電車では行けません。
自動車、タクシー、バスを利用することになります。
バスで行く場合
【JR京都駅から】
京都駅からは、JRバスを利用することになります。
烏丸口の「JR3のりば」で、「高雄・栂ノ尾・周山」行、もしくは「高雄・栂ノ尾」行のバスに乗ります。
栂ノ尾/周山方面の時刻表はこちら
JR3のりばは、JR京都駅の中央口(烏丸口)を出てすぐのところにあります。
乗車時間は約50分、山城高雄(高雄)バス停で下車、徒歩約20分で到着します。
【四条烏丸《地下鉄四条駅》から】
四条烏丸からは市バスを利用することになります。
四条烏丸のEのりばより、8号系統 高雄・栂ノ尾行きのバスに乗ります。
乗車時間は約50分、「高雄」バス停で下車、徒歩約20分で到着します。
8号系統 高雄・栂ノ尾行きの時刻表はこちら
自動車で行く場合(駐車場など)
神護寺は境内は広いのですが、専用の駐車場はありません。
すぐ近くに「高雄観光ホテル案内所駐車場」がありますので、そちらが最寄りの駐車場になります。
料金は、普通車500円、マイクロバス1,000円。
紅葉シーズンの時は混雑するようですが、五大虚空蔵菩薩御開帳の時は休日にも関わらず人がまばらで、いつ来ても停められる感じでした^^
また、少し遠いですが、高山寺の近くには高雄観光駐車場があります。
料金は普通車1,040円となって少し高いですが、神護寺の駐車場が満車の場合は、そこを目指すとよいですね。
神護寺 駐車場から入り口の楼門まで 参道は約400段の石段
神護寺の境内図です。
清滝川を境に高雄山頂までが神護寺の敷地となっています。
高雄観光ホテル案内所駐車場から歩いて200mほどのところに高雄橋があります。
その高雄橋が境内の入り口です。
橋の横には石碑があって、「山内女人禁制」と書かれています。
現在は女性でも入れますが、かつては男性しか入れなかったんですね。
高雄橋からの川の眺め。
この日は早朝まで雨だったので、清滝川は濁流になっていました。
橋を渡ると、参道の入り口です。
ここから石段になるのですが、その段数は約400段、しかもちょっと急です><
休み休み登っていたら大したことないのですが、お年寄りは大変かもしれません^^;
途中、高雄茶屋や硯石亭というお食事処やお茶屋さんが並びます。
「高雄茶屋」は、粉から作るうどんが食べられるお店で、京都名物のにしんそばも提供しています。
「硯石亭」は、紅葉の名所にちなんだ名物茶菓子「もみじ餅」と抹茶がいただけます。
硯石亭の向かいには、お店の名前となった硯石があります。
上の方がくぼんで水がたまるので、硯のようになっているんですね。
この硯石には空海の伝説が伝わっています。
空海は筆が上手なことで有名ですが、神護寺に住んでいた時、天皇が勅使を通じて「金剛定寺」の門額を書くよう、依頼があったそうです。
しかし、五月雨で橋が流されて、勅使が川を渡ることができなくなっていたのです。
そこで対岸に額を立てかけてもらい、この石を硯として筆に墨を含ませ、額に筆を投げました。
すると、額には見事「金剛定寺」という文字が書かれたのだそうです。
そのお寺の扁額、見たいですよね^^
でも残念ながらこのお寺は現存しないのだそうです。
硯石を過ぎるとまもなく神護寺の入り口の楼門が見えてきます。
紅葉の時期はきれいになりそうな感じですね^^
楼門は江戸時代の寛永6年(1629年)頃のもので、持国天と増長天の二天を安置しています。
鎌倉時代に描かれた神護寺絵図によると、以前はここには中門が建っていたようです。
そして運慶による二天王像と八大夜叉像が建っていたそうです。
しかし神護寺にも荒廃の時期がありますし、応仁の乱の影響を受けていますので、その時に焼失したのかもしれません。
なので現在の門は江戸時代の門となっています。
運慶の仏像が残っていれば、この楼門も名所となっていたでしょうね。
楼門から先は有料エリア。
大人は600円です。
楼門までたどり着けば、きつい上り坂は終わりです。
ここからは横に広がった空間になっています。
金堂に行くときだけ、ちょっと頑張って階段を上らなければいけませんけどね^^
神護寺の開基 和気清麻呂を祀る「和気公霊廟」
楼門をくぐってすぐの所に「和気公霊廟」があります。
神護寺は今では空海ゆかりのお寺という色が強いですが、元々は空海のために建てられたお寺ではありません。
神護寺の開基(創建した人)は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族文官「
平安遷都を先導した立役者です。
「和気公霊廟」は、和気清麻呂を祀る場所なのですが、神護寺は、和気清麻呂が建てた和気氏の私的なお寺(氏寺)の一つでした。
当初は「高雄山寺」と呼ばれていて、有能な人材を育てるために建てられたのだとか。
空海がここに住むようになった頃も、「神護寺」ではなく「高雄山寺」という名前でした。
和気清麻呂は、同じころに河内国に、国家安泰を祈願する「神願寺」を建てます。
後にこの2つのお寺が合併して神護寺となったのです。
神護寺の境内には、和気清麻呂の墓もあります。
場所は、境内の裏手の森の中に入っていったところ。
和気清麻呂に関する有名なエピソードとしては、奈良時代の神護景雲3年(769)、「宇佐八幡宮神託事件」が挙げられます。
法相宗の僧「
道鏡は禅に通じていたことから宮廷内に出入りすることが許されていた僧侶。
ある時、女帝、孝謙上皇(後の称徳天皇)の病を祈祷によって治したことから寵愛を受けるようになり、政治にまで参加するようになっていました。
当時の天皇だった淳仁天皇はそれをよく思っておらず、孝謙上皇とも対立関係にありました。
淳仁天皇側にいた太政大臣「藤原仲麻呂」は乱を起こして政権を奪取しようとしますが、密告により失敗に終わり、淳仁天皇は廃位して淡路国に流され、孝謙上皇が再び天皇に戻り「称徳天皇」となります。
これで道鏡はますます調子に乗ってしまうんですね。
そしてとうとう、次は自らが皇位につこうと企み、
「道鏡が皇位につけば、天下泰平が訪れると宇佐八幡大社からお告げがあった」
と、称徳天皇に奏上したのです。
その神託を不審に思い、宇佐八幡に真偽を確かめに行ったのが、神護寺の創建者である「和気清麻呂」です。
清麻呂が宇佐八幡に赴いて確かめたところ、本当の神託は、
「皇位継承者は必ず皇族から立てよ」
というものでした。
これを天皇に奏上して、道鏡の企てを未然に防いだのです。
この事件が宇佐八幡宮神託事件です。
奈良時代の後半は、南都の僧侶の力が大きくなってきていましたし、また道鏡のような危険な僧侶が出ては国が危ないということで、南都と距離を置こうと遷都が考えられるようになりました。
平安京への遷都を進言したのは和気清麻呂で、造宮大夫という役職に任ぜられ、自らも建都事業に尽力を尽くしています。
清麻呂がいなければ、今の京都のような発展はなかったのかもしれませんね。
和気清麻呂は、国に優秀な人材を育てるために、神護寺の前身である「高雄山寺」を建て、また道鏡のような事件が起こらないよう国家安泰を祈願する「神願寺」を建てました。
神護寺はそんな2寺を合併して誕生したお寺なんです。
ちなみに和気清麻呂は、今でこそマイナーな歴史上の人物かもしれませんが、戦前は楠木正成と並んで二大忠臣として有名な存在でした。
明治~戦前にかけては、十円紙幣の肖像にもなっています。
宇佐八幡宮神託事件に関しては、こういう本が出ていますよ^^
空海が14年間も住んでいた場所に建てた「大師堂」
神護寺の境内には、明王堂や五大堂、毘沙門堂などがありますが、いずれも固く閉ざされ、寂しい感じになっています。
そういう一角の中にあって、同じように閉ざされているものの、他と違う雰囲気を放つ建物がありました。
それが上の写真の「大師堂」です。
桃山時代の建築で、杮葺きで全体的に低く、質素な感じなのですが、なぜか目を引きます。
実は空海が神護寺にいた頃、この場所に14年間も住んでいたんですね。
その住居は「納涼坊(どうりょうぼう)」と呼ばれていました。
現在の大師堂は、普段は閉ざされていますが、鎌倉時代作の板彫弘法大師像が厨子の中に安置されていて、11月1日~7日に特別公開されます。
ここで、空海と神護寺にまつわるエピソードを紹介します。
空海が神護寺に来れたのは最澄のおかげだった
空海は長期留学僧の一人として選ばれ、遣唐使船に乗りました。
留学生は20年の滞在が朝廷から義務付けられているのですが、空海はわずか2年で帰国しています。
唐で学んだ密教を、急ぎ日本に広めるためです。
しかしこの当時、朝廷の勅命を破ることは死罪にされてもおかしくない重罪。
当然ながら入京は許されません。
太宰府などで長らく待機していたんですね。
そんな折に時の天皇、平城天皇が病で退位し、嵯峨天皇が即位。
嵯峨天皇は幼いころから聡明で、読書を好み、唐の文化に憧れを抱いていました。
そんな嵯峨天皇の時代になったからこそ入京が許可、帰国から3年経ってやっと神護寺(高雄山寺)に入ることができたわけです。
このように空海は、京都に入るまでになかなか苦労したのですが、その裏で、空海が入京できるよう朝廷に働きかけたのは、天台宗の開祖「伝教大師 最澄」だったのです。
空海は留学成果を書いた報告書「御請来目録」(経典・仏教・仏具などの品目を書いたもの)を帰国直後に朝廷に献上しているのですが、最澄はそれを見て驚きました。
この驚きがどれほどだったのかは次で説明しますが、とにかく自分が知らない内容がたくさんあったんですね。
それはともかく空海は神護寺に来れたおかげで、本格的な密教布教活動をすることができるようになりました。
それから14年間、高野山に移るまでここで住持したんです。
最澄さんさまさまですね^^
最澄はなぜ空海を神護寺に呼んだのか?
話を最澄に移します。
最澄もまた、神護寺での活躍によってその名を初めて世に轟かせた、神護寺にゆかりのある人物です。
和気清麻呂のところで説明しましたが、神護寺の前身「高雄山寺」が建てられたのは、優秀な人材を育てるのが役割でした。
清麻呂の子息たちは、仏教界に新風を吹きこむために、最澄を呼んだのです。
最澄はここで南都七大寺の第一級の学僧に法華経の講義を行います。
桓武天皇は最澄の講義が素晴らしいものだったと喜び、天皇の庇護を受けることとなります。
こうして最澄は日本仏教界のエリートコースを歩むことになったのです。
つまり、最澄も神護寺があったおかげでその名を世に轟かせることになった縁のある場所。
そして入唐僧や一流の僧が出入りするお寺だったからこそ、空海を神護寺に招いたのかもしれません。
最澄は神護寺で空海に弟子入りしていた
最澄は空海と同じ延暦23年(804年)に遣唐使として留学したのですが、空海は長期留学であるのに対して、最澄はエリートコースなので短期留学。
立場が全然違うんですね。
当然乗る船も違います。
なので最澄は、約1年ほどの期間で本場の天台教学と密教を学び、一足先に帰国していました。
帰国後は本場で学んだ天台教学を主に広めたかったのですが、桓武天皇が求めていたのは密教。
それでも最澄は天皇の病や災いを除去する密教の手法をやってのけたんです。
ちなみに、その時使っていた、通称「赤釈迦」と呼ばれる釈迦の仏画「釈迦如来像」(国宝)が神護寺に伝わっています。
この、赤釈迦を使った法華会は何度も行われ、神護寺の名物となってかなりの評判だったようです。
このようにして、平安密教の第一人者としての評価が不動のものとなっていきました。
最澄にとって密教は、いくつか科目のある天台教学の中の一部で、どれも優劣をつけられないものと考えていたようです。
そんな最澄が御請来目録を見て驚き、空海を高雄山寺に呼ぶことにしたのです。
実は最澄は、唐で密教も学びましたが、天台教学を学ぶのが本命で、密教の学びは留学期間が短かったこともあって、不完全でした。
だからこそ密教を専門で学んだ空海を呼びたかったんですね。
その時、最澄は42歳で日本仏教界の第一人者の立場。
空海は35歳、7歳年下の無名僧です。
そんな最澄が、空海の弟子になって密教を学ぶという、異例の師弟関係を結んだのです。
残念ながら後にこの関係は破綻してしまうのですが、最澄の愚直に学ぼうとする姿勢は見習うものがありますね。
最澄が空海に弟子になった、という事実は、神護寺に伝わる寺宝「
灌頂歴名は、密教の入門儀式「結縁灌頂」の控えで、空海のメモ書きです。
儀式では、儀式を受ける僧侶と、数ある仏のうちの一人と縁を結ぶのですが、灌頂歴名は、どの僧侶とどの仏が縁を結んだのかをその場で書いたもので、ほとんどが走り書きです。
間違ったところは墨で塗りつぶして書き直されています。
「弘法も筆の誤り」どころではありませんね^^
でも、当時の様子が伝わるような資料だと思います。
結縁灌頂に参加した僧侶は200名弱。
その中に最澄の名が記されているんですね。
灌頂歴名は、毎年5月に神護寺で行われる宝虫払い行事で見ることができます。
空海は神護寺の大師堂から嵯峨院にあしげく通っていた
空海が神護寺に来てからは、仲良くなった嵯峨天皇のいる嵯峨院に通うようになりました。
嵯峨院は、嵯峨野にある現在の大覚寺のことです。
Googleマップで確認すると、徒歩で1時間12分かかるようです。
マップで表示されている最短ルートは、神護寺の鎮守社「平岡八幡宮」の前を通るルート。
かつてはここまで神護寺の境内だったそうです。
かなり広いですね。
実際に通ったルートは定かではないのですが、平岡八幡宮前を通るルートと合わせて3つのルートが考えられています。
平岡八幡宮前を通るルート(時計回り)、愛宕念仏寺や化野念仏寺を通るルート(反時計回り)、現在の菖蒲谷池を通るルート(真ん中)です。
菖蒲谷池は、江戸時代の寛永年間に造営された人工池なので、空海の時代は嵯峨野に行けたんですね。
空海はこれらの道を通って嵯峨院に足を運び、仏教のことはもちろん、文化面でも交流を深め、嵯峨天皇の信頼を得ていったのです。
嵯峨天皇弘仁14年(823年)、空海に東寺を託して皇位を淳和天皇に譲ります。
東寺はこの時から京都における真言密教の根本道場となったのですが、空海に任せたことで安心して引退できたのでしょうね。
空海はこのようにして、神護寺の大師堂を足掛かりにして、真言宗の発展の道を広げていったわけです。
神護寺が発祥の地!絶景の景色で厄除け祈願、かわらけ投げ
大師堂の近くには、鬱蒼とした森の中に入っていける道があります。
ここから先にあるのは、地蔵院。
遠そうに見えますが、そんなに遠くありません^^
こちらが地蔵院。
神護寺の塔頭寺院の一つで、ここで祀られる地蔵菩薩は「世継ぎ地蔵」と称されて、子授けを願う人の信仰を集めています。
ただ、お堂は相変わらず閉まっていますね^^;
この地蔵院のそばには、名物となっている場所があります。
それがこちら。
深い谷に清滝川が流れる、圧倒されるような見晴らしの良い景色。
高低差は90mもあるそうです。
ここでは、この壮大な景色に向かってかわらけ投げというものができます。
「かわらけ」というのは、瓦で作った
「笥」は素焼きの土器のことです。
かわらけ投げは、厄よけなどの願いを掛けて投げるのですが、それは神護寺が発祥とされているんですね。
かわらけは近くの売店で2枚100円で販売されています。
売店のおばちゃんが投げ方を教えてくれるのですが、フリスビーを投げるようなフォームで、手首を使って下に向けて身を任せるように投げるのだそうです。
自分で上に投げようとすると逆に風のあおりを受けてしまうんですね。
うまくいけば川を挟んだ隣の山まで飛ばせるそうですが、私は途中でブーメランのように曲がってしまい、川のあたりに落ちました。
それでも滞空時間が長く、結構な距離を飛んだので、かなり気持ちよかったです。
ついもう一回やりたくなってしまう厄除けですね。
神護寺 金堂の本尊 薬師如来は国宝第二号!
神護寺の金堂は間口が20mもある大きなお堂で、内陣の須弥壇中央の厨子には、御本尊の薬師如来(国宝)、日光・月光菩薩(重文)、十二神将・四天王が並び立っています。
注目はやはり、御本尊の薬師如来。
平安時代初期の仏像で、太秦広隆寺の弥勒菩薩像に続いて国宝第二号です。
平安時代の一木彫像の頂点と言われる彫像なんです。
カヤの木の一本造りで、重厚感があって、顔は優しいというよりも威厳に満ちています。
なかなかの美仏ですね^^
薬壺を持つ手が高めになっているのも特徴的ですが、こちらは後補のものです。
他にもこの像の特徴として、「立っている」ということも挙げられるそうです。
立っている像といっても珍しくないように思えますが、実はこの像以前の如来像は座っているのが一般的だったのだそうです。
この像や、唐招提寺の仏像群が造られて以降に主流となったんですね。
つまりこの像は、立ち如来のさきがけ、ということですね^^
春秋だけの特別公開!神護寺 多宝塔の五大虚空蔵菩薩
金堂の裏から少し登ったところに多宝塔があります。
ここは普段は閉ざされているのですが、春と秋の2回だけ御開帳されます。
ここで祀られているのは五大虚空蔵菩薩。
虚空蔵菩薩が5体並んでいるんですね^^
中は撮影禁止ですので、「魅惑の仏像19 五大虚空蔵菩薩」という本の写真を撮りました。
持物などは違いますが、同じ仏である虚空蔵菩薩が5体並んでいるのも珍しいですよね。
この並びの像で五体が完全に揃っているものは、神護寺の他に東寺の観智院の五大虚空蔵菩薩(重文)が有名ですが、神護寺のものは現存最古のものとなっており、国宝となっています。
虚空蔵菩薩は、知恵と福徳の象徴とされている仏様。
仏教では宇宙のことを
つまり、宇宙空間いっぱいの広大無辺な知恵と福徳を持った仏様なんですね。
若き頃の空海は、「虚空蔵求聞持法」という修法を行っています。
この修法は、虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱えるというもので、修得すればとてつもない記憶力を得られるそうです。
空海はこの修法を取得して唐に行っていますので、短い期間で密教を会得したんですね。
このような知恵と福徳を持った仏様なのですが、一個人の願いだけでなく、国家・万民という大きな願いの時は、「五大虚空蔵法」という祈願を行うと効果的といわれていました。
虚空は1つですがあまりにも広大なので、その法力を5つに分けて専門化することで最高のパフォーマンスを得よう、ということです。
そのような理由から五大虚空蔵菩薩は5尊の姿に変身しているわけです。
5尊揃って御本尊なんですね。
また、真言宗の金剛界曼荼羅には中央に五智如来が描かれていますが、五大虚空蔵菩薩は五智如来の変化身ともいわれています。
なので五智如来を拝むのと五大虚空蔵菩薩を拝むのも同じなのですが、特に宝ものを与えてほしいときは五大虚空蔵菩薩に祈願するのが効果的なのだそうです。
この五大虚空蔵菩薩は、現在は一直線に並んでいますが、元々は曼荼羅に描かれる五智如来のように、中尊を囲んで左右斜め前と後の四方に配置されていました。
そしてそれぞれのカラーと名前も持っていたのです。
- 法界虚空蔵菩薩(中央・白)
- 金剛虚空蔵菩薩(東方・黄)
- 宝光虚空蔵菩薩(南方・緑)
- 蓮華虚空蔵菩薩(西方・赤)
- 業用虚空蔵菩薩(北方・黒)
色の部分はほとんどが失われていますが、宝光虚空蔵菩薩の緑色は今でもよく残っています。
それぞれの名前の由来は、持物を見るとわかります。
例えば宝光虚空蔵菩薩は如意宝珠、蓮華虚空蔵菩薩は蓮華を持っているんです。
顔の表情も、五体似ているようでなんとなく違っていて、個性があるんですね。
このように5体並んでいるのは東寺の立体曼荼羅に似ていますよね。
なので空海が構想を練って造ったのかと思いましたが、どうやらそういうわけではなさそうです。
神護寺に残っている記録によると、この像ができたのは、空海よりも後の時代です。
空海が世を去った翌年となる承和三年(836年)に仁明天皇が神寺内に宝塔院を建てることを発願され、840年に着工、845年に完成しています。
その時に宝塔院の本尊として造られたものでした。
五大虚空蔵菩薩を拝観するには、春と秋、年に二回の御開帳の時にだけ。
入山料とは別に500円の特別拝観料が必要です。
神護寺を再興した文覚上人
神護寺を語るうえで、もう一人重要な人物がいます。
それが平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶「
神護寺は創建から300年後、鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の危機になってしまいました。
堂宇はことごとく破壊され、寺宝は持ち去られ、わずかに御本尊の薬師如来が残ったのですが、風雨にさらしながら残るのみの状態だったのです。
この状態から再興したのが文覚上人。
神護寺の寺宝も散り散りになっていたのですが、現在残る寺宝のほとんどを文覚上人が取り戻したのだとか。
しかし文覚上人のやり方は強引なところもあって、後白河法皇に荘園の寄進をお願いしたものの、なかなか聞いてくれないので、法皇の所に強引に押しかけて寄進を迫ったのだそうです。
その時法皇は管絃の遊びの最中で、ちょうど良いところで文覚上人が大声で勧進帳を読み上げ、調子を狂わされたのです。
取り押さえられた文覚上人は伊豆に流罪となりました。
実はその時に出会ったのが同じく流罪で流されていた源頼朝。
文覚上人は源頼朝に挙兵を勧めています。
平家が衰退すると後白河法皇からもお許しをもらい、荘園を寄進してもらいます。
更に源頼朝からの寄進もあって神護寺の財政は安定し、再興に向かうわけです。
源頼朝とはこのような親交があったので、神護寺には伝・源頼朝像が伝わっているんですね。
神護寺の境内には文覚上人のお墓があって、金堂の右後ろの山道を行くとたどり着きます。
山道に入ると道はすぐに二手に分かれていて、右は和気清麻呂の墓、左が文覚上人の墓です。
和気清麻呂の墓は割と近いですが、文覚上人の墓はちょっと険しい山道になります。
こういう道を約20分、ゴールはこの先にあるのか不安になりながらも登り続けてやっとたどり着きます^^;
こちらが文覚上人の墓。
隣には後深草天皇の第四皇子、性仁親王の墓もありました。
なかなかきつい山道でしたが、ここにあるのはこれだけなので、誰ともすれ違うこともありませんでした^^;
やはりこんなマニアックなところにはわざわざ来る人はいませんね~。
ただ、ここからの眺めはなかなかのものでした。
写真では見えにくいですが、奥の方に京都市内が見える眺めが広がっています。
神護寺の御朱印
神護寺には
- 仏塔古寺十八尊 第七番
- 西国薬師四十九霊場 第四十四番
- 神仏霊場巡拝の道 第90番
の御朱印が用意されています。
私はそのうち、西国薬師だけ頂きました。
神護寺には国宝や重文に指定されている文化財が多数ありますが、普通に訪れてもなかなか見れません。
5月1日~5日に行われる宝物虫払い行事に公開されますので、寺宝を観たい方はその時に訪れると良いですね。