金閣寺

言わずと知れた京都を代表する観光名所、金閣寺。
京都に来たら一度は訪れておきたい所ですよね。

しかし、誰もが知っている「金閣寺」という名前は、実は正式名称ではなく通称なんです。
正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)といいます。

漆の上から金箔がたっぷり貼られて光り輝く鹿苑寺の舎利殿「金閣」があまりにもインパクトが強いため、金閣寺と呼ばれています。

この場所からは「北山文化」と呼ばれている文化が生まれました。
それは、武家文化の中に貴族文化を取り込み、禅宗風の色付けをしている、という特徴があります。

舎利殿「金閣」は、その北山文化の象徴といわれている建物でもあります。

金閣寺に来て、このインパクトのある建物を見るだけでも良いのですが、足利義満のことを知ると金閣寺がもっと興味深くなりますよ^^

金閣寺の歴史と足利義満

金閣寺を語るうえでキーパーソンとなるのが室町幕府三代将軍、足利義満。
教科書などで見たことがあると思いますが、この人です。

足利義満

「鹿苑寺」の名前の由来は、義満の法号(出家した時に与えられる名前)「鹿苑院殿」にちなんで名付けられたものです。

そして、アニメ「一休さん」で「将軍様」と呼ばれているのも実はこの義満です^^

アニメではそんなにすごそうには見えませんが、実際の功績はかなり大きいです。
歴代の室町将軍の中で最も権勢を誇った将軍が義満なんです。

義満は、二代将軍を務めた父、足利義詮(あしかがよしあきら)が若くして亡くなったことで、わずか十一歳で将軍に就くことになります。
そして周りのバックアップもあって、見事立派な将軍になったんですね。

義満の活躍をピックアップしてみると、まずは将軍家の地位向上

守護大名の連合政権としての性格が強かった室町幕府は当初、将軍家の権力はあまり強くなかったのですが、11ヵ国も守護大名を兼ねる有力大名、山名氏清を倒し(明徳の乱)独裁体制を確立しました。

そして義満が果たした大きな出来事が、南北朝の統一

室町幕府は足利尊氏によって開かれましたが、その過程で天皇家が南朝と北朝の2つに分裂して対立していました。
その南北朝を再び統一させたのが義満です。

こうして国内の治安を安定させ、権威が高まりました。

さらには元寇以来ストップしていた日中貿易(日明貿易)の再開
明から織物や書画、生糸、銅銭などが輸入され、幕府に莫大な富をもたらします。
その時に義満は中国から「日本国王」の称号をもらっています。

足利家は、尊氏の頃には既に禅宗に傾倒していて、義満は禅宗文化の育成もすすめました。
幕府創立に深くかかわっていた禅僧「夢窓疎石」を開山として大掛かりな禅寺「相国寺」を建設します。
現在、金閣寺は 臨済宗相国寺派の禅寺ですので、相国寺の塔頭(たっちゅう)(小院のこと)、という位置づけになっています。

さらに能楽の祖とされる観阿弥・世阿弥親子のデビューのお手伝いをしています。
後小松天皇が北山殿に行幸した際に、かねてよりパトロンとして支えてきた観阿弥・世阿弥をプロデュース、能舞を披露させました。
そこから能は日本の伝統芸能になっていきます。

義満のこうした文化的な取り組みは、武家、公家、禅の3つが混ざったような「北山文化」に繋がっていきます。

権威も財力も手に入れて、文化まで育んだ人は、日本の歴史を通してもそんなにいませんよね^^
将軍になれたタイミングが良かったのかもしれませんが、義満は若くしてそれだけすごいことをやり遂げたのです。

そんな勢い絶頂の中、義満は三十七歳にして突如、征夷大将軍を引退して息子の義持に将軍職を譲り、出家してしまいます。

そして、かつて西園寺公経の別荘があった北山の地を譲り受け、そこに御殿を建てて隠棲しました。

金閣寺は、その時に建てた山荘北山殿(きたやまどの)が前身となっています。

金閣寺はもともと、足利義満の広大な山荘「北山殿」だった

現在の金閣寺の境内は、境内は約40,000坪あるそうで、結構広いのですが、北山殿の敷地はもっと広かったようです。

義満は将軍職から引いて、そんな北山殿で「隠棲」という形になっていますが、実権を手放したわけではなく、ここで政治を動かしていました。
北山殿に移ってから亡くなるまでの十年間、ここが政治の中心地だったのです。

北山殿は大きく、三つの御所に分かれていました。

  • 北御所:義満の住居
  • 南御所:正室の日野康子の住居
  • 崇賢門院御所:崇賢門院の住居

です。
崇賢門院は、後円融天皇の生母で、足利義満の叔母にあたります。
義満と後円融天皇の仲を取り持っていたそうで、お世話になった人ですね。

北山殿はそういう場所だったようですが、金閣寺舎利殿の前に広がる池泉回遊式庭園に義満の権力が現れています。

金閣寺 鏡湖池

庭園にあるこの池は、金色の舎利殿を鏡のように写すことから「鏡湖池(きょうこち)」と呼ばれています。

風が吹かなければ、確かに舎利殿の姿がそのまま対象に写し出されるのが良く見えるので、本当にきれいなんですよね^^

この庭園は、後ろに見える衣笠山を借景にしているから広く見えるとはいえ、実際も結構広いです。
ただ、普通に見ているだけでは全体像を把握しにくいです。

なので、金閣寺を訪れたことののある人も、金閣寺前の庭のことを覚えている人はほとんどいないのではないでしょうか?

それもそのはず、通常の拝観では、庭を見るための良いポイントには入れないからです。
全体を俯瞰して見るには、金閣に上らないと見えないように思えます。

義満は金閣の上から眺めていたのだと思いますが、接待をするときなどは、ここに船を浮かべて遊覧していたようです。
しかも義満の時代は鏡湖池がもっと南に広がっていたそうですから、今よりももっと壮大な景色が見えていたのかもしれませんね^^

池には蓬莱島と呼ばれる島をはじめ、鶴島、亀島など大小さまざまな島があります。

金閣寺 鏡湖池

さらに、畠山石や赤松石、細川石などの奇岩名石が配されています。

「蓬莱」というのは、仙人が住むといわれていた場所。
そこに鶴や亀などをめでたいものを配する庭園はよくあるのですが、ここではもう一つ意味が隠されているともいわれているんです。

蓬莱島は「葦原島」とも呼ばれています。
葦原島の由来は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」からきています。
これは「古事記」や「日本書紀」で、日本の国土のことを指していますよね。

葦原島は、それを象ったものとされています。

そして畠山石、赤松石、細川石は当時の諸大名が競って義満に奉納したもの。
つまり、権力者である義満に気に入られたかったわけですね。

そのような石を、日本の国土を象った島の周りに芸術的に並べて、義満は金閣の上から眺めていたわけです。
これを見て自分が日本を支配していることに満足していたのか、これからどうするか考えていたのか。
趣味が良いのか悪いのか・・・よくわかりませんね^^;

義満が亡くなった後は、後継ぎの義持はここに住むことはありませんでした。
義満に疎んじられていたからでしょう。

しばらくは、正室の日野康子の住居として使われていましたが、日野康子が亡くなると、建物の大半は解体され南禅寺や建仁寺などの諸寺院に分け与えられました。

唯一残された建物が、舎利殿「金閣」だけ。
ここを中心として創建されたのが金閣寺です。

「金閣」と「鏡湖池」は、義満の権力を誇示する北山殿の遺構でもありますね。

北山文化の象徴、舎利殿「金閣」

舎利殿「金閣」は、どこから見ても豪華絢爛。
目の前に広がる鏡湖池との風景が絶妙ですよね^^

金閣寺 舎利殿

後ろから見ても、近くから見ても金ピカ。
金箔がきれいに貼られています。

金閣寺 舎利殿

金閣寺 舎利殿

細かく象られたホウオウにもきれいに金箔が。

金閣寺 ホウオウ

舎利殿は昭和61年に補修されていますが、その時に使われた金箔は二十万枚、重さにして二十キロも使っているのだとか!

舎利殿の面白いのは、金箔がふんだんに使われているということだけではありません。
三層になった建物の構造にもその時代の特徴が表れています。

金閣寺 舎利殿

まず一層目は寝殿造の「法水院(ほっすいいん)」。
寝殿造は平安時代の貴族の邸宅の様式で、義満像と宝冠釈迦如来像が祀られています。

二層目は武家造の「潮音洞(ちょうおんどう)」。
岩屋観音が四天王に囲まれて祀られています。

三層目は「究竟頂(くっきょうちょう)」。
中国風の禅宗仏殿造で、かつては阿弥陀三尊と二十五菩薩が祀られていたそうですが、足利義政の頃にはすでに何もない状態だったとのこと。
現在は中央に仏舎利(釈迦の遺骨)が納められています。

この造りですが、1つの建物に公家、武家、禅宗の建築があわさった建物になっているんですね。
違う建築なのに、言われないとわからないくらいバランスがとれています。

この融合がまさに「北山文化」の象徴といわれているわけです。

義満は皇位を望んでいた?説

ここでさらに面白い見解があります。

「金閣には、義満の思想も反映されているのではないか?」

とも言われていることです。

義満は出家して僧侶になっていますが、武家の立場ではトップにいます。
さらには、公家の立場でもトップを狙っていたと考えられています。
公家のトップ、といえば、天皇ですよね。

義満は、天皇家を保護しつつも圧力をかけ、権限を少しずつ奪っていきました。
本来、後小松天皇の後ろで、引退した前天皇「後円融上皇」は院政を行うつもりでしたが、義満は結構口を出していたようです。

権力をほしいままにしてきた義満の権限は、その頃には准三后(皇后クラスと同等)にまでなっていたそうで、将軍職を義持に譲ると最高位である太政大臣にもなっています。

どんどん口出しができるわけです。

でも、義満は自らが天皇になろうとしていたわけではないようです。
後小松天皇が引退するときは、溺愛していた息子の足利義嗣を次の天皇にし、自分は天皇の父親として上皇になろうという計画です。

実際、義満が創建した相国寺の過去帳には「鹿王院太上天皇」という記録が残されています。
さらに嵐山にある足利氏ゆかりの臨川寺には「鹿王院太上法皇」という位牌が残されています。

「鹿王院」というのは義満自身のこと、「太上天皇」はいわゆる上皇のことで、出家していれば法皇になります。

これが、義嗣を天皇にしよう計画があったのではないか?といわれる理由です。

後小松天皇の次の天皇の座を息子の義嗣に、と考えていた義満は、巧みに天皇に近づき、その権力を欲しいままにしてきました。

そして晩年に行ったのが、後小松天皇を迎えて盛大な宴を催したイベント「北山殿行幸」です。
盛大な宴は半月以上も続きました。

それからわずか1か月後、義嗣の元服の儀式をなんと宮中で、しかも大胆にも親王と同じスタイルで行っています!
つまり「立太子式」です。

これは、後小松天皇に何かあれば、次の天皇は義嗣に・・・という流れになってもおかしくないですよね。
しかしその約10日後、義満は突然病死してしまいます。

暗殺されたのでしょうか?その真偽は定かではありません。
それによってこの計画は葬り去られたわけですが、このままいけば、足利家が天皇家になっていたのかもしれませんね。

ここでもう一度金閣の姿を。

金閣寺 舎利殿

上から

  • 三階:禅宗仏殿造(禅)
  • 二階:武家造(武家)
  • 一階:寝殿造(公家)

という構造です。

仏の階が一番上にあるのはわかるのですが、公家の階より武家の階が上にあるのは、武家の方が公家よりも上だと言っているような気もしますね^^

実はあまり知られていない?昭和25年に炎上した金閣寺

金閣寺は「国宝」と思っている方は多いと思います。
実は国宝ではないんですね^^;

金閣寺は創建以来、応仁の乱で大部分が炎上はしていますが、桃山時代に復興しています。
以来、豊臣秀吉や江戸幕府、明治政府も修理保全していますし、戦争でも無事だったのですが、なんと昭和25年に炎上しているんですね。

しかも放火によるもの。
犯人はなんと、金閣寺に従事していた21歳の僧侶です。
その動機は「美に対する嫉妬」なのだとか。

なんとも言えない動機ですね^^;

くしくもこの年は文化財保護法が施行されて、戦前の旧国宝の見直しと新国宝の指定し直しが行われました。
金閣も新国宝として指定されたばかり。

今の金閣はその5年後に復興させたものです。
でも、国宝はそれによって取り消されてしまいました。

この事件ののち、三島由紀夫は「[PR]金閣寺 (新潮文庫)」という小説を、水上勉は「[PR]金閣炎上 (新潮文庫)」という小説を書いています。

興味のある方は読んでみてください^^

生き生きとした鯉の石が滝を上る龍門瀑

金閣を見終わった後も拝観苑路は続きますが、その苑路沿いに必見のものがあります。
それが、こちらの「龍門瀑(りゅうもんばく)」。

金閣寺 龍門瀑

滝になっているので立ち止まって見る人は多いのですが、説明がないのでそのまま通り過ぎてしまう人が多い印象ですね^^;

龍門瀑は、滝を上ろうとする鯉を石組で表現したものです。

中国の黄河の上流にある激流の渓谷に、三段になった滝があるのですが、その滝を上りきった鯉は龍と化す、という伝説があります。
「登龍門」という言葉がありますが、それはこの故事によるものなんです。

龍門瀑は、禅僧の夢窓疎石が作庭した西芳寺(苔寺)や天龍寺などで見られ、金閣寺の龍門瀑は西芳寺のものを参考に造られたものです。

西芳寺と天龍寺のものは枯滝になっていますが、金閣寺のものは今でも水の流れのある滝の中に、鯉を表現する鯉魚石(りぎょせき)を見ることができます。

金閣寺 竜門瀑 鯉魚石

鯉魚石の表情は見る角度で変わってきますが、生き生きとしている印象を受けますね。

龍門瀑は、故事にちなんで上・中・下の三段の滝になっているのが基本。
西芳寺や天龍寺ではその構成になっていますが、一方で金閣寺の龍門瀑は一段に簡素化したものになっています。

その分、わかりやすいですね^^

西芳寺では下段の滝を上りきろうとするところで、天龍寺では中段に鯉がいます。
金閣寺のものは上っている真っ最中で、しかもよりリアルな演出の滝のぼりです。

これらを比べてみると、石組による表現って面白いと思いますね^^

義満以前の北山の持ち主、西園寺家の遺構

金閣寺 白蛇塚

金閣寺の裏手には、少し高台になったところに安民沢(あんみんたく)という池があります。

金閣前の鏡湖池と比べると、自然の木々に覆われていて、地味です・・・

池の中の小島には、「白蛇塚」という石塔が立っています。
これは西園寺家の鎮守と伝わっているもの。

西園寺家は、義満以前にこの北山の土地を所有していた貴族です。

西園寺家の祖、藤原公経(ふじわらのきんつね)という人物。
この藤原公経が北山に別荘「北山第」と氏寺の西園寺を建てたので、西園寺と呼ばれるようになります。

西園寺家は鎌倉幕府と深い関係を持っていて、鎌倉幕府と天皇家の間をしばしば取り持ち、時には摂関家をしのぐ権力を持つほどになったこともある家柄でした。
その財力で北山第を造営したんです。

しかし鎌倉幕府が衰えると、西園寺家も衰え、この地は荒れ果てていたんですね。
そんな北山の地に目を付けたのが義満だった、というわけです。

この「安民沢」という池は、西園寺家当時の遺跡をとどめているのだそうです。

西園寺家にまつわるものはこちらにも。
さらに奥に行ったところにある不動堂です。

金閣寺 不動堂

こちらには、弘法大師作と伝わる石不動明王が本尊として祀られています。
残念ながら秘仏で、2月節分と8月16日の年2回のみ御開帳されるのですが、このお不動さんは北山第にあった西園寺護摩堂本尊だったそうです。

眼病にご利益があるのだそうですよ^^

御朱印

金閣寺の御朱印です。

金閣寺 御朱印

不動堂近くの朱印所で頂くことができます。
結構並ぶと聞いていたので、覚悟して行ったのですが、5分くらいですんなりいただけました^^

そして、かっこいい御朱印帳がありました。

金閣寺 御朱印帳

写真では外していますが、透明のカバーも付いています。
御朱印帳が1900円、御朱印入りで2200円でした。

私は黒を買いましたが、白のカラーバリエーションもあります。


金閣寺の駐車場あたりでは、左大文字山が見えます。

左大文字

これは京都の夏の風物詩「五山の送り火」の時に使われる有名な山です。
双眼鏡で見ると、その火床もよく見えますよ^^

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