仏教の歴史観の一つに「末法思想」があります。

釈迦の入滅後、釈迦の教えである仏法は次第に衰えていくという歴史観です。

平安時代は末法思想に直面した時代。
当時の人々が末法思想をどういう風に受け止めて、どう行動したのか。

末法思想を元にして生まれた新しい思想や文化もありますので、末法思想を知ると、その影響を受けた時代の歴史が興味深くなります。

末法思想とは?簡単にいうと、こういうこと

末法思想は、簡単に言うと、釈迦の正しい教えも、2000年後には正確に伝わらなくなって、ついには廃れてしまう、という思想です。
そうなると、救いのない乱れた世の中になってしまうのですが、それが経典に書かれているんですね。

なぜ伝わらなくなるのか?

それはまるで伝言ゲームのようなものだからです。

伝言ゲームは、伝える距離が長くなれば長くなるほど、最初の人が言った内容が全く違うものになってしまいますよね。
教えの本質の捉え方は、人によって解釈が変わります。
単純な伝言ゲーム程度でも変わってしまうのであれば、教えの解釈が変わるのは無理もありません。

その時の時代背景が影響したり、何らかの外部要因で解釈が歪んだり、または元々なかったものが加えられたりといったことが長い年月の間に起こるので、最終的にはまったく違うものになってしまう可能性があります。
釈迦は、そうなることを危惧したのです。

釈迦の教えは、この世の苦しみから解放されるにはどうすればよいのか?ということ。
悟りを得ることができれば、苦しみに満ちたこの世界から脱出できます。

しかし教えの内容が変わってしまうと、それをどんなに頑張って実践しても、悟りを得ることはできません。
つまり、時代を経ると悟りを得るものがいなくなってしまう・・・
そのようにして釈迦の教えが消滅してしまう、というのが末法思想です。

末法思想の三段階、正法、像法、末法について

末法思想では、釈迦の入滅(亡くなること)後、正法(しょうほう)像法(ぞうほう)末法(まっぽう)の三段階を経て、正しい教えが消滅すると考えられています。

その時期が数字であらわされています。

正法:「正しい教え」と「正しい修行」が残り、悟りが得られる時代

末法思想では、釈迦が亡くなって1000年間を「正法」といいます。

正法の期間は、釈迦の正しい教えがまだ存在しています。
そのため、修行も正しく行われ、悟りを得るものも現れます。

釈迦の在世時と同じように仏法が正しく世に広まります。

ちなみに、釈迦の入滅は、紀元前949年とされています。

像法:仏法の「形」だけは存続する時代

末法思想では、正法からその後の1000年間を「像法」といいます。

像法の期間は、寺院や法会など、仏法の形は存続しています。
釈迦の教えは存在し、修行も行われますが、それは形骸化したものになってしまい、本当の意味での実行力が後退しています。

像法の「像」は「形」の意味。
形だけの修行をしても、悟りを得ることはできないのです。

それでも、釈迦の教えの本意を理解できれば悟りに繋げるチャンスは残っていますので、希望はあるかもしれない、という感じですね。

末法:「教え」だけは残るものの、修行者がいない時代

像法が過ぎると、ついに「末法」に突入します。

末法思想では、この時代になると、教えは存在するものの、形だけの修行すら行われなくなるとしています。
人々の性格や能力が衰えてしまっているので、修行ができなくなっているんですね。

何が衰退するのか?
その原因が5つの穢れ「五濁(ごじょく)」です。

五濁がはびこる悪い時代になることを、五濁悪生といいます。

  • 見濁(けんじょく):「見」は「見解」の意味。誤った思想・考えが常識化してはびこる状態。
  • 煩悩濁(ぼんのうじょく):欲望や憎しみ、怒りなど煩悩が生み出す心身の濁りが横行する状態。
  • 衆生濁(しゅじょうじょく):煩悩に侵された人間が集まり、善行を忘れ、人間の資質が低下する状態。教えの理解力も劣化する。
  • 命濁(みょうじょく):自他の生命が軽んじられる状態。生きていく意義が感じられず、寿命も短くなる。
  • 劫濁(こうじょく):「劫」は「時代」の意味。疫病や飢饉、動乱、戦争といった時代そのもの汚れ。他の四濁が長く続くとその時代に入る。

このような五濁にまみれた世の中が「末法の世」です。

末法の世になると、人の質が悪くなり、犯罪が増える不安定な社会情勢、さらには疫病や災害も加わって救いのない世の中になると、恐れられていたわけです。
そうなると、悟りを得るチャンスも失ってしまうのです。

平安時代の1052年 疫病の流行で末法入りと考えられた

末法思想の正法・像法・末法の時期については異説があります。

6世紀ごろの中国の末法思想では、正法が500年、像法が1000年の説が主流となって展開されていました。
それが日本に伝わると、南都仏教の三論宗系が正法500年、像法1000年説を、法相宗系が正法1000年、像法1000年説をとっています。

そのように見解がわかれるのは、時期や様相が経典によって異なるからです。
さらに、釈迦の入滅時期も、紀元前のことですからあいまいです。

でも後になると、日本では、釈迦入滅を紀元前949年とみて、正法・像法の年限をそれぞれ1000年とする説が主流になっていきました。

日本で末法思想を語る時によく引用されるのが、平安時代の比叡山の僧、皇円が編纂した歴史書「扶桑略記」です。

扶桑略記によると、永承7年(1052年)の疫病流行を末法のあらわれとしています。
永承7年は、藤原道長の息子、藤原頼通の時代。

この年には他にも、平安貴族からもいまだ熱く信仰されていた、大和の長谷寺が焼失してしまう事件も起きます。
陸奥国では「前九年の役」が勃発して、地方情勢も不安視されました。
貴族たちはいよいよ末法が到来したと強く感じたわけですね。

末法は、この1年で終わりというものではありません。
万年続くと言われています。

末法入りした1052年近辺の時期は、院政政治がおこなわれるようになった時期で、政治的な変動がありました。

そして寺社勢力は、僧兵といわれる武力集団をつくります。
往生鎮護のお寺であった比叡山延暦寺では内部抗争が激化したり、東大寺や興福寺など南都の僧とも権力闘争が起こりました。

人災だけではなく、疫病の流行、干ばつや基金、地震や火災が相次いだのも、末法の世界観を強烈に意識させるには十分だったでしょう。

末法思想の影響で浄土信仰が流行した

平安初期から平安中期に貴族たちの間で流行した仏教は、密教でした。
空海が開いた真言宗や、最澄が開いた天台宗ですね。

密教では、加持祈祷を行って、即身成仏・現世利益を求めます。
つまり、現世での救済を求める仏教です。

そこに末法入りが近づくと、死後は極楽浄土に生まれたいと願う「浄土信仰」や極楽浄土の主である阿弥陀仏への信仰が注目されるようになりました。
こちらは来世での救済を求める仏教です。

浄土信仰・阿弥陀信仰を、末法が近づいた頃に流行させた仕掛け人は、比叡山の僧侶「恵心僧都 源信」や、六波羅蜜寺の「空也上人」です。

いずれも末法入りより100年ほど前に、末法入りを危惧して活動した僧侶です。

恵心僧都 源信
※滋賀 聖衆来迎寺蔵 恵心僧都源信像 - 源信展で購入したポストカードより

源信は、いろいろな経典から極楽往生について書かれた部分を集めて解説を加えた「往生要集」を著します。

往生要集では、地獄の恐ろしさをこれでもかというほどリアルに描き、次に極楽浄土のすばらしさが描かれています。
そして最後に、そんなすばらしい極楽浄土への往生の仕方が著されているのです。

地獄や極楽についてリアルに描いたのは、日本では往生要集が初めてなんです。

今までは、善行や徳行によって往生できると考えられていたのですが、

どこに往生するのか?(浄土は極楽浄土だけでなく、浄瑠璃浄土や補陀落浄土など色々あります。)
どのような善行を積めば往生できるのか?

その例となっているものが、特殊な霊験や伝説ばかりで、いまいちピンとくるものではありませんでした。

しかし往生要集では、その辺を明確にしてきました。

その中で源信はこの世に生まれたものは、地獄に落ちる運命にあるといいます。

今までだと、悪行を犯したものが地獄に落ちる。
逆にいうと、悪行を犯さなければ地獄には落ちないイメージがあったのかもしれません。
それが、この世に生まれただけで地獄に落ちるという事実を突きつけられるわけですね。

それには平安貴族たちも恐れおののいてしまいました。
しかし、それを回避して極楽浄土に往生することができる方法があるのです。

どのようにすれば往生するのか?
往生要集によるとそれは、心に仏を思って念仏を唱えること

今までは善行や徳行を積めば往生できると考えられていたのですが、末法の世になると、自力では往生もできなくなります。
下りのエスカレーターを乗り換えることはできないのです。

しかし念仏を唱えて阿弥陀様に頼めば、自力ではどうにもならなくても、阿弥陀様が極楽浄土へ連れて行ってくれるわけです。

「他力本願」という言葉は、ここから来ています。
「他力」は「阿弥陀様のお力を借りて」ということ。
今では人任せのような悪いイメージがありますが、末法の世ではそれが大事だったんですね。

そんな思想が描かれた往生要集は、貴族たちの間でバイブルとして注目を集めるようになりました。
それは、後に法然が開いた「浄土宗」、親鸞が開いた「浄土真宗」、一遍が開いた「時宗」、良忍が開いた「融通念仏宗」などに受け継がれていきます。

空也上人 フィギュア
(画像:空也上人像|仏像フィギュアの【イSム】より)

源信が貴族たちに極楽往生の仕方を広めたのに対して、空也上人は一般民衆に広めていきます。
市中を歩き回って、

「末法の世では人間は自分の力では往生できないから、阿弥陀仏にすがるしかない。そのためには念仏を唱えることだ。そうすれば極楽浄土で生まれ変わることができる」

と説いて回ったんですね。

このようにして、浄土信仰が貴族だけでなく、民衆にも広がりました。

末法思想の影響で作られた、平等院鳳凰堂に代表するこの世の極楽浄土

「浄土信仰」は飛鳥時代からあったのですが、このような不安な時代を背景にして再ブレイクしました。
実際、末法入りした時期から、貴族たちは競って阿弥陀堂を建てたので、阿弥陀堂が著しく増加します。

末法以前の阿弥陀堂は、故人の追善のために建てられる場合が主でした。
先祖や自分の親など、亡くなった親族を追善して慰霊する、報恩的な性格だったんですね。

それが末法以降は、追善に加え、自分の臨終葬送の儀式なども行われるようになります。
つまり、自分の臨終の時には、阿弥陀如来に迎えに来てもらい(来迎(らいごう))、極楽浄土に連れて行ってもらう(往生)のです。
現世よりも来世がよくなるように最善を尽くす、それが最重要なテーマだったわけです。

それを実現させるために建てられた阿弥陀堂で、代表的なのが、京都・宇治にある平等院鳳凰堂。

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂は、この世に極楽浄土の様子を再現したお寺として有名です。
時の権力者、藤原頼通によって、末法入りした1052年に建てられました。

「観無量寿経」によると、極楽浄土は「豊富な水が湧き出る清浄な場であり、樹木が生え茂り、草花は咲き乱れて、楽しい音楽が鳴りやまない楽園」と説かれています。

平等院は、阿弥陀堂の前に宝池があり、その池が伽藍を映すことで美しさを際立てています。
そしてその伽藍は、鳳凰が羽根を広げたように建ち、実際に屋根には鳳凰が乗っています。
その伽藍の中には浄土の主である阿弥陀如来がおわすんですね。

阿弥陀堂の内部は、須弥壇には螺鈿がちりばめられ、柱や貫など、華麗な装飾が施され、長押には楽器を奏でる雲中供養菩薩が配されています。

まさに現世に現れた極楽浄土なんです。

同じく「観無量寿経」によると、極楽往生するには、極楽浄土に思いを馳せる「観想法」を実践することと書かれています。
つまり、念仏や読経に耳を傾け、自らも念仏を唱えながら極楽浄土の情景を心に描くのです。

そのためにも、極楽浄土の美しさ・素晴らしさがありありとわかる場所が必要だったのです。
お寺は普通、祈りの場としての存在が第一ですが、平等院は、とにかく視覚的なものを重視して建てられました。

12世紀に成立した極楽往生した人々の伝記を集めた「後拾遺往生伝」の童歌には、

「極楽不審(いぶかし)くば、宇治の御堂を(うやま)へ」

と、極楽の存在を疑うなら平等院の参詣しなさい、という記述があります。
平等院はそれだけ注目を集める寺院だったんですね。

平等院創建以降は、このような浄土を再現した浄土寺院が多く創建されます。

現代も残るものとして有名なところは、京都の浄瑠璃寺、法金剛院、法界寺、奈良の円成寺、神奈川の称名寺、岩手の毛越寺、福島の白水阿弥陀堂などがあります。

来迎形式の阿弥陀如来像の流行

浄土信仰の隆盛とともに、いかにリアルに阿弥陀如来を観想するかが求められるようになりました。
そこで阿弥陀如来の像容にも変化が現れてきます。

まずは、平安中期の仏師、定朝(じょうちょう)によって確立された彫刻様式、「定朝様」(じょうちょうよう)

それまでの仏像の像容は、時代によっていろいろですが、量感を強調するあまり、体躯や手足の長さ、頭など、全体的にバランスがとれていないものも珍しくないですよね。
衣文表現もあるものの、リアル感は感じられません。

しかし、定朝様の登場で、頭部と体部の均衡が整いました。
大きさも一丈六尺(丈六)といって、約四・八五メートルを標準としました。
そしてふくよかな身体つきで落ち着きがあり、まさに浄土の主にふさわしいスタイルになりました。
それが平安後期に流行したのです。

定朝様の阿弥陀如来は色々なお寺にありますが、定朝本人によるものと、唯一確証のある仏像は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来です。

鳳凰堂の阿弥陀如来は独尊ですが、阿弥陀如来の像を9体並べた「九体阿弥陀」または「九品仏」のスタイルも登場します。
これは、極楽往生には信仰の深浅に応じて「九品」という9つのランクにわかれる「九品往生思想」に基づいたもので、こちらも往生要集に書かれています。
それぞれに阿弥陀仏が存在するとされているんです。

9体の阿弥陀を用意するのは、自分がどのランクに相当しても、必ず迎えに来てもらえるように周到に用意したのかもしれません^^

九体阿弥陀で有名なのは、京都の浄瑠璃寺です。

また、観音・勢至をお供に加えた「三尊形式」の像も盛んに造られるようになります。
つまり、来迎の様子をより意識した造りになっているわけです。

その様子で有名なのが、三千院の三尊像。

中尊の阿弥陀如来はどっしりと座っているのですが、脇侍の観音・勢至は「大和座り」といって、今すぐにでも立ち上がることができるようなスタイルの像容になっています。
座っていてもすぐに駆け付けることができる、という表現の現れですね^^

これらの阿弥陀如来仏像は、臨終の際に安置し、阿弥陀仏の指と自分の指を5色の糸で繋ぐことで結縁を結び、念仏を唱えながら亡くなっていく「臨終行儀」にも使われました。

浄土の景観と仏を顕在化させる浄土曼荼羅

経典に基づいて極楽浄土の景観や仏の様子を描いたものを「浄土変相図」「浄土変」「浄土曼荼羅図」などと呼ばれます。

有名なのは当麻寺の「当麻曼荼羅」、元興寺の「智光曼荼羅」、超昇寺の「清海曼荼羅」で、浄土三曼荼羅と呼ばれています。
上の写真は当麻曼荼羅です。

中国の敦煌莫高窟の壁画のようなものもありますが、日本では軸装の絹本や紙本の浄土曼荼羅図が信仰を広げました。

平等院のような伽藍建築や仏像だと、その場に行かないと極楽を体感できませんし、作るにもかなりの財力が必要です。

絹本や紙本は写すことができますし、実際、鎌倉時代になると盛んに転写されて流布しました。

絹本や紙本の浄土曼荼羅図のメリットは、

  • 写すことができる。
  • 現世ではありえないような表現ができる。
  • 文字の読めない庶民にも絵解きで世界観を説明できる。
  • 置く場所に制限されない。

といったことが挙げられます。

現世の人々が、浄土の有様を具体的に思い描く手助けになりますし、何よりたくさんの人に伝えるには、浄土曼荼羅図は有効な手段だったでしょうね。

国立文化財機構のサイト「e国宝」で、「当麻曼荼羅図」を細かくみることができます。

阿弥陀如来が迎えに来る様子を描いた阿弥陀来迎図

極楽の有様ではなく、臨終の際に、阿弥陀如来が迎えに来る瞬間にスポットを当てたものが阿弥陀来迎図です。
この来迎図にも色々なスタイルが生まれました。

上の図は、三尊形式で正面向きの来迎図。
正面タイプのものは、自分の臨終を想定して、このように迎えに来ると思いを馳せる「観想法」に用いられていたようです。
正面向きなのは、行をおこなうものと向き合う必要があるためです。

次は斜めの構図。

時代を経ると、左上から右下に向かった、斜めの構図が主流になってきます。
しかも、時代を経るほど、引き連れる聖衆の数が増えていって、二十五菩薩像も造られるようになっていくのです。

このような来迎図は「九品来迎図」とも呼ばれていて、九品往生思想に基づいてランクが高い人ほど聖衆の数が多くなると考えたようです。

その中でも、急いで迎えに来るほどランクが高い人もいて、そのような迎えの様子を描いたものを「早来迎」と呼ばれます。

早来迎
※知恩院「阿弥陀二十五菩薩来迎図」|京都国立博物館「国宝」展で購入したポストカードより

早来迎は、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図が有名です。
スピード感がありますね^^

このような来迎図は、まさに臨終の時に使われました。
北枕で寝て顔を西に向け、頭側に来迎図を奉懸します。
そして念仏を唱えながら亡くなっていくわけですね。

来迎図は、掛け軸タイプのものが多いですが、平等院の阿弥陀堂の内部にも描かれていますし、屏風タイプや巻物に描かれていることもあります。

来迎の有様を演劇化した「阿弥陀来迎劇」

来迎に関しては、劇によるパフォーマンスも行われ、民衆の信仰心をかきたてました。
有名なのが、奈良の當麻寺の練供養です。

阿弥陀や二十五菩薩に扮した人たちが、當麻寺ゆかりの中将姫の往生を描いた阿弥陀来迎劇です。

その時に使う菩薩面は、鎌倉時代以降も数多く制作されました。


末法思想を背景にして生まれたもので、紹介しきれなかったものは他にもたくさんあります。
有名なところでは京都・三十三間堂の千体千手観音や、広島・厳島神社の平家納経なども末法を意識して作られたものです。

末法思想を意識してこれらの作品に触れると、当時の人の気持ちが想像できるかもしれません^^